-
食物と病気の因果関係
-
食べると疲れにくくなる食事【玄米】
-
農業(食糧)こそ、国家の土台
-
身土不二と食物
-
身土不二とは
-
赤血球中のナトリウムとカリウムの比率は、なぜ1対5がよいか
-
米とみかん
-
白米食は弱者をなぜ弱くするか
-
玄米食は身心を鍛えてくれる
-
玄米正食法および正食医学の源流
-
玄米基本食の要旨
-
玄米は生きている
-
玄米の長所と短所
-
玄米の素晴らしさの原理
-
玄米の構造は人体の消化吸収の秩序に合致
-
玄米の栄養は人体の各層各部に適合する成分
-
玄米には不思議な力がある
-
玄米と酵母菌が病気にならない体を作り上げる
-
玄米ごはんとみそ汁
-
牧畜民・漁猟民の食生活の知恵
-
植物は動物と人間の親
-
旬に合わせた食生活が基本
-
地球環境を破壊する根本原因
-
体と心の基本条件
-
一物全体食はなぜよいのか?
-
一物全体食とは
-
はしかにみる植物性食と動物性食
-
3胎児と赤ん坊と牧畜民の相似象
-
白米食は弱者をますます弱くする
当サイトの更新情報をお届けします!フィードの購読はこちらから。
食物と病気の因果関係
「食は命なり」と覚れば、病気は食物に因縁し、縁起することを理解できます。
なぜなら、病気は生命現象のひとつにすぎません。
生命現象は命の現われかたと、象です。
病気は、食物の微分現象にすぎません。
私は幼少の頃から弱かったおかげで、風邪をひいたり、腹痛で苦しんで寝こむたびに、なぜ風邪をひいたのだろうか、なぜ腹痛になったのだろうかと、フトンに寝て天井を眺めながら考えたものです。
その頃は、まだ、食物の秘密をまったく知りませんでしたから、飲み食いに病気の原因があることなど思いもつきませんでした。
この考える習慣のおかげで、後年「食は命なり」とか、「食なきところに生命現象なし」という格言に触れた時、雷光にうたれたように「食」の重大性を察知させられました。
すでに他の拙著(『生活革命=玄米正食法』や『「元気」の革命』など)に書いたことですが、私の両親は、私の誕生以前に三人の男児を病死させています。
長男を八歳で、二男を四歳で、三男を一歳で、いずれも赤痢・疫痢でした。
三男を失った翌年に私が生まれ、私も生まれると同時にジフテリヤにかかり、死線をさまよったようでした。
子どもを連続して病死させた両親の反省は、医者と薬の世話になるのが手おくれだったという認識でした。
ですから私のからだのぐあいが悪くなると、なにはさておき、すぐに医者に駆けこんで、注射をしてもらい、薬をのませることでした。
私は胃腸の弱い子でした。
もっとも、これは、私だけではありません。
母も胃腸は弱かったし、二人の姉と一人の妹も、みな胃弱でした。
いま考察すると、胃弱になる飲食物を母は好きでしたし、母の両親も好きだったようです。
私たちは胃腸薬と消化剤(重曹など)と保健薬(わかもととかエビオスなど)を手離したことがありませんでした。
両親は明治32年(1899)生まれです。
明治・大正・昭和前期は、白砂糖は貴重な食品で、白砂糖を使える家庭は教育文化度の高い家だなどといわれた時代です。
母の家系は教育水準の高い一家でしたから、「白砂糖は教育文化のバロメーターである」という名宣伝文句に、ウマウマとのせられたようです。
白砂糖好みとなって、胃腸の弱い家系となったといえます。
母はその代表選手になったかのありさまで、三人の男児を赤痢と疫痢で死亡させたのです。
白砂糖が、胃腸を病弱にして、そこを赤痢菌や疫痢菌が温床にする因果関係を知っていれば、悲しいおも念いをせずに済ませられたはずです。
ところがその時代は、子どもを赤痢や疫痢で失なうのはありふれていて、一種の流行病として、これに雁患するのは「運」が悪かったこととして見過ごされたのでした。
「殖産興業」の国策から、砂糖産業も政府の援助補助を受けて繁栄に繁栄を重ねた時代です。
政府は、食物と病気の因果関係を知りませんから、難病が砂糖によって起きてることなど想像すらできず、砂糖の消費普及の音頭とりを行っていたのです。
この結果、教育熱心で国の教えや指導に忠実なバカマジメな国民ほど、可愛い子どもを流行病で死なせ、死なせずに難を逃れた子弟は、軍国の英霊へとこれも犠牲に供す結果に終っています。
要するに、巧妙な宣伝の裏には必ず大きな落とし穴があって、善良なる弱者はいつの世でも悪賢い強者の権力者悪徳商人の犠牲に供される憂き目に遭う仕組みになっています。
こうした「悪の仕組み」を見抜くには、「食物の秘密」を是非とも知っておく必要があります。
私の両親は、三児を病死させた真の原因が何であったかを正確に理解せぬまま、その後も生活をし、生涯を終えています。
赤痢・疫痢は胃腸の極端な塩ぬけ症状が原因です。
白砂糖を文化家庭のシンボルなどと洗脳されて消費につとめ、このほか胃腸の脱塩を促進する飲食物、たとえば当時としてはサイダー、ラムネ、かき氷、キャンデー、スイカ、メロン、トマト、氷砂糖、キャラメル、カステラ、甘納豆など、こうした口あたりのよい甘いものを常食していては、赤痢・疫痢にかかるのは当然です。
胃腸に正常な塩分が保たれなければ、健全な消化吸収活動はされず、血液と体液の塩分濃度に応じたさまざまな病気が派生してきます。
私の幼少期に、こうした食物が身近にあふれていたということは、父も母も、三児が飲食物のまちがいの犠牲になった原因を正しく理解できなかった証拠であり、正しい反省がなされていないことを物語ります。
父母は原因究明を自分たちでは行えなかったので、私への遺産としたのかもしれません。
私は、こうした甘い飲食物を中心に、医者と薬と栄養食によって育てられることになります。
そして、いっこうに丈夫にも健康にもなりきれないのでした。
出産後のすぐにジフテリアになったのち、脱腸になっています。
二歳の時に脱腸はどうにか治り、その後は風邪と腹痛の繰り返しです。
自分でも、飲み食いに、いやしい食いしん坊だったと記憶しています。
邪食の暴飲暴食は、かならず、病気や怪我を誘発します。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
食べると疲れにくくなる食事【玄米】
次の考察でも、玄米の優秀さはわかります。
糖質(デンプン・ブドウ糖)は消化の過程や、完全燃焼されなかったり腐敗すると乳酸になります。
激しい労働や運動をしたあと、筋肉が痛くなったりするのは不完全燃焼の糖質や老廃物質から生じた乳酸が代謝されきらずに筋肉組織に滞積して起こる現象です。
乳酸は疲労素にもなる。
乳酸を疲労素などにしないためには、ビタミンB1が必要です。
玄米には、これが(「めし」にした場合で100グラム中0.16ミリグラム)備わっている。
ガン再発を防ぐ為のおすすめ食事☆「有機(自然農法)玄米+雑穀米」
玄米自体の糖質を十分に活性化する最適最良のビタミンB1がきちんと準備されています。
白米(��めし″にした場合で100グラム中0.03ミリグラム)は、このビタミンやミネラル類を剥離剥脱してしまっている。
このゆえに、白米自体はほとんどが糖質です。
白米が消化され吸収されるためには、他の食品や体内からビタミンやミネラルを補充せざるをえません。
白米食は疲労素になりやすく、腐敗酸化しやすいものを食べているわけです。
このように玄米と白米とでは、同じ炭水化物でありながら、体内でのはたらきは大ちがいです。
精白・精製産業は、からだを不健全・不健康にさせて、薬品業や医療を繁昌させるための事業であることが、この一事でも明瞭です。
見た目や舌先きだけを満足させ、ラクに安直に食べられる飲食物は、体内ではまったく逆の毒素化しやすいものであることを理解しておくことが必要です。
もちろん、見た目が悪るいもののほうがすべてよいというわけではありません。
天然自然をあまりにも過度に人為加工すると、自然本来の生命力が害われたり失われて、本来のものとちがうものになってしまいがちであるということです。
天然自然の形で飲食できるものは、なるべく最小限度の加工や手の加えかたで飲食する、そのほうが生命力を害わずに授受できることになります。
��栄養″を摂るという思考や知識は、自己中心・人間中心主義のもので、まちがっています。
「生命」を天地自然、宇宙、神から授受するという考え方や思想に立つべきです。
「生命」の授受を正しく行うこと、ひとがひとたる、人間が人間たる使命はこの点にしかないのではないでしょうか。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
農業(食糧)こそ、国家の土台
いまどき敵だ味方だという表現はよくありませんが、話の都合上、あえて使わさせていただきます。
21世紀は「世界政府」とか「地球一家」とか「人類みな同胞」の時代といわれます。
そうはいっても、世界の人びとが無秩序にごちゃまぜになるということではないでしょう。
長期にわたって居住する土地の、それぞれの空という環境の中で生活するのですから、その空の自然の秩序に従って生活しなければならないのはいうまでもないことです。
その時にもっとも基本的に大事なことは、その風土の産する、その季節の食物を食糧とする日常の食生活です。
外国から買ってきて食えばよいとか、音のように外国のものを分奪ってきて食えばよいという考えは、世界の平和の秩序上からも、身心の健康の秩序上からも通用しないことです。
また、食糧ゆたかな国が、食糧の乏しい国に供与するのも、一時的なこととしてはたいへん立派なことですが、それが常習化や恒常化して食糧供与が貧しい乏しい国を支配することになるとしたら、好意や親切とはいえない性質のものになってしまいます。
戦後(第二次世界大戦後)、アメリカは日本を復興させるために、多大の食糧援助をしてくれました。
その援助で日本は息を吹きかえし、私たちは当時の感激をいまも忘れはしません。
感謝する心に変わりはあり豊ん。
あの時の恩を忘れはしないし、今後も忘れてはならないことです。
あれから五十年、いまや食糧事情と食生活はたいへんな変わりかたです。
その変わりざまは万人が承知ゆえ、ここに改めて記すのは省略します。
ここでのテーマに関することのみを述べるといたしましょぅ。
いまや日本は、産業経済の面ではアメリカに次ぐ大国になり、経済の面ではアメリカと経済戦争ともいわれる火花を散らすほどの勢いです。
ここで日本人もアメリカ人も、よくよく理解し覚悟しておかなくてはならないことがあります。
ドイツには「外国の食物をわが家の食卓にのせるな」という諺があるそうです。
これはえらいことです。
私はこの諺の真否や由緒を詳しく調べたわけではあり豊んが、私なりの解釈をすれば、これはしっかりした自然観や生命観と宇宙観なり世界観をもつ国民性のあらわれであると考えます。
いまの日本人のお仕着せ的な民主主義的頭脳には、この諺は封建的で排他的な印象に映るにちがいありません。
しかし、そのような受けとめかたや解釈や評価は、まちがいです。
この諺は、まさに「身土不二の原則」に立つ、国と国民の健康と自主独立を確立させんがための祖先の叡智にはかならず、この諺がいまも守りつづけられているなら、ドイツ民族は、やはりすぐれた国であり国民であり、改めて敬服させられます。
大戦中は、わが国同様に狂気の沙汰の行為・行動があったのは事実としても、大地にしっかりと根づいて立脚する根づよい民主主義が保存されているのを感じます。
世界各国、各国民とも、こと食糧政策、農業政策、食生活に関しては、こうあらねばならないことですし、こうあるべきです。
国によっては、これを実現したくてもできない境遇の国々が多いですが、基本的にはこうあらねばならない。
いずれの国、いずれの国民も自主独立の尊厳を確立するのには、可能なかぎり身土不二の生活実現に努力するのが正しいあり方です。
外国の食物をわが家の食卓にのせないということは、身土不二の原則に従う正しい生き方にはかなりません。
さて、身土不二の観点に立って日本とアメリカの関係の実態と現状を眺めるとどうでしょう。
いまの日本は「世界中の食物でわが家の食卓を満ちあふれさせよう」であり、「世界中の美味珍味を食いあさろう」というありさまです。
明治以降、日本と日本人は、極端にいえば日本の食物と食事法を食卓から追放し、放棄してしまいました。
これがそもそも間違いの根本原因で、以後絶え間なしの無謀な世界戦争へ駆りたてることになりました。
当時は狂気の支配によって、身土不二の真理に耳を貸し熟考する情勢になかったようです。
自然の法則や宇宙の法則を破ると、はまりこんでゆかざるをえない破滅と滅亡の道が口を広げます。
現在もなお依然として、間違えた道をそのまま突き進んでいる状況です。
戦後50年、表面的には豊かで平和で、金持日本と、ほとんどのひとは錯覚していますが、日本と日本人の歩んでいる道は、明治と戦後を引き継ぐ破滅と滅亡の道にかわりありません。
なぜこのようなことがいえるのか。
アメリカはアメリカの行った食糧援助で、戦後の日本国と日本国民を救い復興させ、いまや真の経済大国に発展成長させたと思っています。
それはまざれもない事実です。
このことに対しては、さきに述べたとおり、日本国と国民は深甚の感謝と報恩を将来にわたって忘れてはなりません。
しかし日本を独立させた後のアメリカと、豊国となったとぬかよろこびしている日本自体は宇宙法則を踏みはずした道を進んでいます。
日本は警したといえ独立の精神をもたず、アメリカは日本を警させたとは体裁だけで、実際は隷属させる関係を手放していないのです。
これは日本と日本人に最大の責任があるのはいうまでもありません。
日本人が舶来品崇拝族なのを逆手にとって、アメリカは日本の台所や食卓に踏みこんでくることをやめない。
これは他のモノゴトとちがって、まさに最大の内政干渉にはかなりません。
アメリカのこの攻勢に対して、日本自体がドイツのように「わが国は非常時以外は外国の食物を食卓にのせない」「のせてはならない」の先祖伝来の生活憲法があり、食糧および食生活に関しては干渉してくれるな、とハッキリ拒絶すべきなのです。
外国の食糧を食卓にのせるということは、自国の農業を潰すということではありませんか。
対外国の農業潰しに成功するということは、古い表現ですが「戦わずして勝つ」の兵法の成功であり、「敵を隷属させ、支配し、亡ぼすのに武器は要らぬ」の戦法です。
いわゆる「糧道断ち」による占領です。
日本は、戦後、科学工業貿易立国を宣言することによって、自ら「糧道断ち」を選択し、アメリカはこれさいわい、これ好都合とばかり、食糧の援助と売りこみによって日本を食糧消費市場に目論んだのは明らかです。
食糧貿易の門戸解放を強要し、日本の農業潰しに拍車をかけています。
これは相互扶助、相互互恵、内政不干渉、共存共栄、共存共生、共存共貧の関係ではなく、将来に禍根をもたらす関係です。
オレンジ解放によって、日本のみかん農家は潰滅しました。
農業としてのみかん栽培は破滅させられました。
そしていよいよ米の解放によって、稲作農家は潰減です。
農業としての稲作はごく一部分の特権的農業者と一部の企業以外は滅亡することになります。
「米とみかん」これは日本の生命です。
国の精華です。
この二大精華を放棄するということは、わが国の解体と消滅へつながることです。
世界がひとつの国、ひとつの政府の時代になっても、それを成り立たしめ、支えるかっての国々や地域には、その国、その空の国体と精華は厳存しており、それを正しく理解し尊重し維持存続されるそれぞれの国民や民族の自覚こそ、真の民主々義であるはずです。
国体やその精華を正しく理解していない民主主義はまがいものであり、これを正しく理解しようとしない精神こそ専制的、封雷、軍国主義的といえましよう。
日本人はこれを放棄し、アメリカは放棄させることに成功しつつある。
要するに日本と日本人は、五十年前にアメリカおよび連合国との戦争は終了したと思いこんでいるのに、アメリカは終了させていなかったという解釈がなりたちます。
武器による戦争は「原爆」によって終了したけれど、日本を占領する政策はずっと継続されているのです。
いまようやく、米とみかんの農業を破滅させることによって、いよいよ念願の、日本国と日本人を裸にして支配できることになったのです。
それよりも何よりも、日本国と日本国民よ、これでよいのでしょうか。
「これでよいのか、おまえは糧道を自ら断っている」と私はいわざるをえません。
アメリカがわるいのではありません。
世界の他の国々がわるいのではありません。
お前自身がわるい。
お前自身の問題です。
お前は国の精華の「米とみかん」を放棄してまでも、科学工業貿易立国が正道であると信じた。
いまもって信じている。
糧道(自国農業)を確立して票ての工芸易立国でなくては正道ではないのです。
米とみかんの自給自足体制と食生活を確立しておいての工業貿易立国でなければならないのです。
食糧は、ドイツの諺どおり、100%自給でなくてはいけません。
そうでなければ真の自主独立国民とはいえません。
食糧戦略によって他国や他民族に干渉する行為は、武器を用いない戦争行為であることを、いまや世界憲章に明示する必要があります。
食糧は、機械工業製品や単なる物品や物質とはまったくちがう。
食糧は「イノチ」であって「モノ」ではありません。
イノチは本来、売買してはならないのです。
モノの売り買いは、自由に大いに行ってよくても、食糧をモノとして売買するのは人道をはずれる行為です。
食糧はイノチであるということを、人類はしっかりと理解し認識しておかなくてはいけません。
やる気のない人の「メカニズム」
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
身土不二と食物
外国などへ旅行する時、生ま水を飲むなと注意されます。
おなかをこわしやすいからです。
なぜ旅先の水は飲まないほうがよいのでしょう。
理由はいろいろあります。
いちばんの理由は、水質のちがいによる胃腸障害と伝染病の感染でしょう。
水質のちがいは胃腸をこわしやすくし内臓にストレスを与え、伝染病に感染しやすくする。
いったん煮沸した水や、公認の飲み水なら飲んでよいとされています。
こうしたことのために胃腸がとくに弱いひとは、自分用の飲用水を持参で外国旅行するひともいます。
異国、異風土の水は、日常飲み慣れている水とは、やはりいろいろと違いがあるのです。
水の化学記号はH2Oです。
H2Oで表示される水は、みんな同じに見えます。
学問上は水をH2Oと表示して一律に扱ってしまいますが、実生活上は一律ではありません。
さまざまな水があるのです。
水はH2Oだから、世界中のどこの水もみな同じはず、だからどこの水をどう飲もうと害はないはず、というぐあいにはいかないのです。
旅先きの水のちがいは明らかです。
ところが現代栄養学は、水はH2Oだからみな同じという考えです。
たとえば、タンパク質を一日75五グラム摂取しなさいという場合、肉でも卵でも魚でも大豆でも、要するに75グラムのタンパク質量であれば栄養的に摂取されているとみなします。
アメリカ産の牛肉であろうと、ニュージーランドやオーストラリア産の牛肉だろうと羊肉だろうと、人工暗室で飼育されたブロイラーであろうと、南アフリカの先でとれた魚だろうと、東南アジアの海で養殖されたエビであろうと、中国産の大豆であろうと、産地などかまいません。
値段が安くて食べられればいいのです。
商社は世界各地から商売になりそうな食物や食品をなんでも輸入し、食品会社はそれを日本人向きに巧妙に体裁よく加工して栄養食晶に仕上げます。
栄養士、調理師、料理人は栄養計算法にもとづいて栄養価を算出し、これこのとおり栄養があるから栄養食だというわけです。
水でさえ「処かわれば品かわる」 で、飲用には注意に注意をせねばならないのに、品質が水よりはるかに複雑な食糧や食品畔、経済効率さえよければ処かまわず輸入されてしまう。
表面的な衛生状態と栄養価だけで大手を振って流通し、使用されています。
これは、国民の健康を考える立場からは大問題です。
異空の産物は、異風土の元素から成り立っています。
タンパク質も脂肪も炭水化物も、その他の栄養素(ビタミンやミネラル)も、みなそれぞれ産地の元素によって成り立っている。
元素は、どこのどの元素も同じ記号の同じ表示だから元素にちがいはあるものかと、科学者も一般常識者も考えます。
しかし仮りに同じ元素でつくられたとしても、産地が異なれば異なった産物に仕上がってしまう。
さきほどのH2Oがよい見本です。
輸入食糧と国産食糧とでは、同じ品名や名称や、同じような形態をしていても、その成分のタンパク質は同じではないし、脂肪も炭水化物も、ビタミンもミネラルも、それぞれにちがいがあります。
たとえば日本の米(ジャポニカ)は食べてからだを違〃にするはたらきをしますが、外国産の米(インディカ)は��冷〃にするとはいいませんが日本の米ほどの「温」効能は保有していません。
水(H2O)ひとつを観察しても、土地によって水質や成分にちがいがあり、飲用の適不適があるように、食物も国内産と外国産にはちがいがあります。
国産の食物は、この日本の風土の光や水や土中の元素が結合しあったものです。
ですからこの風土の日光を浴び、この風土の空気を呼吸し、この風土の水を飲む日本人の人体によく共鳴しあってストレスや障害を生じさせる割合はすくなくすませます。
外国産の食物は国内産と同じというわけにはいきません。
その土地、その土地に生活する人体には適応しやすくても、「処かわれば晶かわる」ことを認識しておくべきです。
その程度の人体への不適合や不適応は微々たる問題といわれるかしれませんが、毎日の常食となると重大です。
なにを食べても丈夫で健康に自信ある強者には問題なくても、私のように生来弱かった者や、老人や乳幼児、それにいま病気治療とか療養中の人たちにはまざれもなく相当な負担になるのは事実です。
負担のみならず、病気の原因や、病気を促進する要因になっているのが事実です。
医学と医療が、日進月歩で進歩しているといつも自負しているにかかわらず、病気と病人と国民医療費はいっこうに減らず増大しつづけている、この原因のひとつに輸入食糧品の氾濫と常習による食の無秩序を挙げることができます。
輸入食品は弱者をますます弱者にする、病人をますます病人にする、そうした性格と性質のものなのです。
「生活しているその土地に正しい農法によってできる、その季節のものが最良の食べもので、それを正しく料理して、正しく食べる」ことの大切さは、日本人だけに当てはまることではありません。
世界中のひとすべてがともに守らなくてはいけない自然の法則であり、生命の秩序です。
異風土・異国の珍しい食物や食品は、噂好品として一年に一、二度のごちそうとして食べるのなら害はないでしょうが、常食は健康を害う一大原因となる性格・性質のものです。-----
EXTENDED BODY:
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
身土不二とは
「日本民族はお盆と正月に大移動する」 といわれます。
日本人には、なぜ、このような性癖があるのでしょう。
お盆とお正月になると、生れ故郷に帰りたくなる。
生れ故郷には、両親やきょうだいや、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚や幼な友達や先生がおり、先祖代々の墓もある。
仮りにいまはそれらはなにも無くなってしまったとしても、なつかしい山や川や森や林や野原や沼や湖や海はある。
憶い出の光景がある。
そうした故郷に無性に会いたくなる。
ほんのちょっとでいいから肉親の顔を見たい、面影をしのびたい、光景に接したい、風にあたりたい、そうした衝動に駆られて、自他ともに同じような行動に走ります。
外国人は、日本人のこうした集団行動を不思議がるとともに不気味にも恐怖にも感じるらしく、日本人とはへんな民族だと思う人が多いようです。
しかし外国には外国の、日本人から見たらすぐには理解しがたい同じような集団性癖はあるもので、必ずしも日本人だけの特異な性癖ではないのです。
故郷がえりの行為行動や心理は、民族のいかんを問わず、人間だれにもあることです。
赤ちゃんがお母さんの乳房を求め、孤児となった子が両親を恋い求めるのと同じです。
故郷には父母がひそんでいるのです。
大腸がんの抗癌剤治療
父母の親の親の親の、そのまた親の親の、ずうっと先の親の陰と陽の光とその天御祖神がいるのです。
私たちのからだとこころは、故郷の所在を知っていて、わたしの頭がどうこうしようと思考するまえに、陰と陽の光の故郷に向かって行動を起こしてしまうのです。
生まれ故郷を出て、しばらく異郷で生活すると、故郷の光陰が心身からうすれて減少し生命活力が不足してきます。
すると本能的に、故郷のエネルギーを欲しくなる。
故郷の風土に接して充電したくなる。
矢も楯もたまらず故郷にかえり、故郷の風土に接すれば、タチマチに活気(生エネルギー)が充電されて元気が湧いてくる。
往復の交通渋滞や列車の混雑に消費されるエネルギーを要しても、それをはるかに凌ぐ生命力を故郷は与えてくれる。
私たちは本能的にこのことを知っていて、その時節になると生理的欲求となって民族移動的現象になるのです。
生気注入行動であり、生命エネルギー充電行動なのです。
このように、お盆と正月の民族移動は、身体と故郷=風土は不二である、すなわち一体のものである一例といえます。
肉体を構成している主要な元素は、もとをただせば生まれ故郷の風土の元素ゆえ、故郷の風光や風土に接するのがいちばん身心を活性化しやすいのです。
生まれ故郷の空気や水や日光や食べものは、すぐに生命エネルギーとなる親密性と親近性があるのです。
桜沢如一は著書『生命現象と環境』(日本CI協会)において「身土不二の原則」を、次のように述べています。
「人類、動物、植物 − あらゆる生命現象は、その環境、風土の産物です。
私たち人間は「生活しているその土地にできる、その季節のもの」を、正しく食べることが、心身の健康の大条件です。」
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
赤血球中のナトリウムとカリウムの比率は、なぜ1対5がよいか
地球の自然生態系(以後、地球生態系と表現する)は、遠心力と求心力のバランスによって成り立っている。
これは私がこと改めて述べるまでもない事実です。
結論をさきに申せば、ナトリウムとカリウムは血液中の求心性力と遠心性力のバランス(釣りあい)を表現する代表的な象徴ミネラルである、ということです。
ほかにも指標となるミネラルバランスはいくつかあります。
それらの中で、ナトリウムとカリウムは、もっとも求心性力と遠心性力のバランスを象徴します。
地球が、緑の生命衛星として存在できるのは、宇宙の求心力と遠心力のバランスにかかっている。
このバランスに異変が生じたら、たちまち生態系に大変事が生じる。
この二つの力が宇宙の秩序を保っているから、地球も地球の万生万物も生存していられる。
求心力と遠心力のバランスは、万物の生命与奪権者であり生命規制者である、といえましょう。
それでは、求心力と遠心力の秩序とは、いったいどういうものなのでしょう。
これはまさに、天文学者や物理学者など、宇宙生命物理や理論を専門とする学者・研究者の証明分野です。
しかし人間の健康に関連した求心力と遠心力の研究学説におめにかかっていませんので、私見を述べるしかありません。
たとえば、地球の大気圏外へ宇宙ロケットを発射するには、求心力を1とすると、それに対抗する7倍以上の遠心推進力を必要とする、といわれます。
無重力圏へ地球から物体を運び出すのに、求心力1に対抗し突破する7倍以上の遠心力が必要である、ということです。
地球が太陽系の現状軌道を規則正しく運行できるのは、全宇宙の地球に対する求心力と遠心力のバランスが平均して1対6に規定されている、このバランスによる小宇宙と称される人体もこの規定に随順する。
人体も、もののみごとに、この二つの力に規定され、支配されています。
求心性と遠心怪の力とは、どのような特徴なのか、その主だったいくつかを観察してみましょう。
求心性とは、文字どうり、外部から中心とか内部へ、外から内へ向かぅ性です。
それゆえ求心性力とか求心力とは、内なる中心へ向かう力をいい、遠心怪力あるいは遠心力とは、内から外へ向かう力ということになります。
求心性力とは「凝集圧縮」に、遠心性力とは「膨張拡散」に象徴される。
ナトリウムは求心性力の、カリウムは遠心性力の代表的ミネラルです。
なぜなら、ナトリウムは縮ませたり、熱を閉じこめる特性があります。
カリウムは拡げたり伸したり、熱を開放したり、冷やす特性をもつミネラルです。
健康な赤血球の求心性力と遠心性力の比率は1対5というのは、人体において赤血球が最高に機能を発揮するのには、ちぢむ力とひろがる力のバランスが1対5の時に、もっとも好ましい理想的な状態になる、ということです。
人体は呼吸せずには生きられません。
ということは、細胞は呼吸せずには生きられないことを物語っています。
細胞に呼吸をさせているのが赤血球です。
赤血球のはたらきはこれだけではありませんが、赤血球は細胞に酸素を運搬し、炭酸ガスを搬出するという基本使命をはたすと同時に、赤血球そのものが人体を構成し機能させる最大の生命素子でもあるのです。
赤血球の状態いかんによって、人体の状態や体質のいかんがきまる。
たとえば、ナトリウムとカリウムの比率が1対7とか、1対7以上に遠心性(陰性)が優勢になったとします。
赤血球は「膨張拡散」の性質が優位になりますから、この赤血球によって形成される細胞や組織は、その組成形態も機能も総じて膨張拡散の性向となり、ゆるみ、たるみ、ふとり、ひえる、などの体質を現わすことになる。
それに応じた疾患や病症が生じやすく、気質も陰性に傾いたものとなります。
これとは逆に、ナトリウムとカリウムの比率が1対3とか、1対2などと求心性(陽性)が優勢になると、陽性特有の体質や気質、疾病が発現してくる。
1対5という比率は、「凝集圧縮」力と「膨張拡散」力の理想的調和(中庸)のとれた比率であると理解できます。
人体の健全な恒常性の根本は、赤血球のナトリウム・カリウム比の健全な調和性にある、といっても過言ではなさそうです。
赤血球のナトリウムとカリウムの比率の1対5は、人体という小宇宙の求心力と遠心力のバランスのモノサシです。
人体が健全であるためには、赤血球のナトリウムとカリウム比が1対五5であることが必要なる条件のひとつです。
石塚左玄は、当時の自然農法の玄米の成分の中に、これを発見しました。
この以前に、玄米と赤血球ではありませんが、玄米と人体が相似の関係にあることを江戸時代の医者でもあった思想家、安藤昌益(1703〜1763)は指摘し、解説しています。
『安藤昌益全集、統道真伝』(農文協刊)によると、「米粒は人間の諸要素をそなえ尽した一真である」と、米と人体(人間)が深い関係および相似の象にあること、端的な表現をすれば「ヒトは米の化身である」とまで表現しています。
石塚左玄は、人体をさらに踏みこんで、赤血球に米と人間(人体)の相似象を発見したわけです。
この二つのことからだけでも、玄米が人体および人間にとって欠くことならない食物かがわかるではありませんか。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
米とみかん
日本人にとって「米とみかん」が生命であることについて述べておきます。
日本は四方を海に囲われた島国です。
この島国で明るく健康にたのしく生活するのには、自然の制約を最大限に活用する知恵が必要です。
上古代、あるいは神代の時代の日本の先祖は、いったいどのような生活の知恵を体得し発揮されていたか、こうしたことに関して『秀眞伝』は実に重要な伝承をしています。
「米とみかん」は神代から、特別な位置づけをされています。
米が私たちの主食として最高の食物であることは、いまさらいうまでもありません。
稲作水田の開拓は、神代から近代に至るまでのわが国にとって、最高に重要かつ貴重な国と国民の開拓事業でした。
稲作農業はもっとも重要な産業でした。
日本人は稲作民族として、日本の文化と文明を築いてきたわけです。
「米」についてはすでによく知られていると思いますので、ここでは「みかん」に関していささかの説明をいたします。
私も『秀眞伝』を読むまでは、みかんはビタミン類など栄養豊富な果物の一種である、という程度の認識でした。
ところが『秀眞伝』には、「みかん」としてではなく「たちばなの実」として、その樹とともに政治や日常生活場面にたくさん出てきます。
「みかん」は「たちばなの実」のことです。
神代から古代にかけての「たちばなの実」は、もっと小さく硬くしまっていてニガ味のつよい赤黄金色の実だったようです。
この実が重要だったのか、この樹木が重要だったのか、この樹のすべてが貴重かつ重要だったのでしょうが、超古代の世界的楽園としての「常世の国」の香具の木として、米と同様に天界からこの日本の島国にさずけられた神木と位置づけされています。
そして「たちばな」という命名がされています。
なぜ「たちばな」の名称かについて、横佐知子氏が『食べものは医薬』(筑摩書房)で興味深い解説をしています。
その一部を引用させていただくと、
「タチバナとは、神霊がたち現われて田植えや農作業の時期を告げる花の意味であり、また、タジマモリの名前に由来するともいわれている。
京都御所の紫廣殿には右近の橘があるが、古代においてタチバナとは柑橘類の総称であったようだ」
「タチバナ」という名称の由来については、このほかにもあるにちがいありません。
わが国の神木と指定され崇められるのには、それ相応の理由や根拠があってのことに損得樟絹神代の先祖は、直観と実体験から、この木の神性および私は『秀眞伝』によって、橘が神木であることをはじめて学んだのでした。
それ以来、「食べもので病気を治す」立場で、「みかん」の研究をはじめました。
日本という島国での食生活は、神代の時代から今日至まで、いったいどのようであったのか。
「米」が主食に位置づけられたことはよくわかります。
「みかん」はどのような位置づけになるのかを研究してみました。
そして次のように見えてきたのです。
神代の神々が「橘」を神木と指定した生理的、生態的、医療的理由がわかってきました。
四方を海に囲われた畠の日本人が、この国で生活してゆくのには海の幸(海の産物)を除外しては成り立ちません。
この国では魚や貝や海草を食糧とせずには食生活は成り立たない。
米を生産するようになる以前の狩猟採集生活時代は、狩猟は重要な生活手段であったはずです。
生命の秩序や宇宙法則から考察すると、動物が動物を食うのは「陽性生物」が「陽性生物」を食うことになって、明らかに宇宙法則違反なのです。
できうることなら、人類は動物などの肉食をしないほうが良い。
しないで済まされる土地柄(風土)に生活しているのであれば、肉食をすべきではないのです。
『秀眞伝』にも、天照大神の言葉として、肉食をしてはならないと明示されています。
肉食の中では、魚貝は比較的に邪気、邪霊、毒気はすくない部類ですが、それでも動物であることにちがいありません。
食べずに済むなら、食べないほうが良いのです。
しかし、狩猟の時代から漁によって生活する人たちは、川辺や海辺にたくさんいます。
農耕が発達する以前に、漁猟によって生活をたてていたひとは、すでにたくさんいたはずです。
農耕が発達して普及して、米やその他の穀物が収穫される時代になっても、わが国の一般的な食生活は、雑穀といも類と野菜山菜と木の実と、それに魚貝類と海草類でした。
米は雑穀や木の実類にくらべればたくさんは食べられず、鳥獣肉は魚貝にくらべれば日常食ではなかったはずです。
「みかん」は陽光ゆたかな海辺の果実です。
潮風に当たってよく生育するだけあって、魚と相性のよい成分をたくさん含んでいます。
人体にとっては邪気・邪霊・毒気や病因となりがちな魚貝の成分を、みかんのもつ成分は中和と解毒と排泄にすぐれた作用をする。
みかんには人という陽性な生物が、魚貝という陽性な生物を食することによって過剰になりがちな陽性成分を、たとえば塩分やアレルギーやジンマシンをひきおこしやすいタンパク質を、中和したり消化促進する成分に富んでいます。
これらの観占章魚曇食べざるをえないこの国民に、橘を神木として、その実を磨〃として天は授け下されたのではなかろうか、と考察することができます。
米と野菜と魚は、日本の風土がしぜんに豊かに生産できる食物です。
日本人の定食素材です。
この日常食素材を、悪い副作用を最小限に減らして、子孫繁栄の食事として定着させる副食物として、緑の国土に太陽を象徴する「常世の国」の香久の木の実「みかん」は位置づけされたにちがいありません。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
白米食は弱者をなぜ弱くするか
米の化学成分表を、じっと、よく見てください。
白米は、玄米から糠(ぬか)層と胚芽部をはぎとったものです。
はぎとり度に応じて五分つき米、七分つき米、胚芽米、精白米に分けています。
三分つき米というのもあります。
精白米は、玄米の8%が、五分つき米は玄米の4%が、はぎとられます。
昔は、お米もその他の穀物も精白しないで食べていたので「質実剛健」の体質と気風(精神)が人体にも社会にも充満していました。
江戸元録以後、白米になって、日本人は身心ともに薄弱、虚弱へと進行しています。
それに比例して、社会も国も変わってきているわけです。
精白するとヌカと胚芽が特に奪われ、タンパク質、脂肪、繊維およびミネラルが減少し、その中でもビタミンB1も急減しています。
江戸時代、白米の流行に比例して脚気が流行したのがうなずけます。
糠(ぬか)と胚芽をはぎとったデンプン質ばかりの多食では、体内のミネラルバランスが崩れてしまいます。
このため現代栄養学では、一日30種品目以上の食品を摂取することを義務づけるわけです。
白米の欠陥を、副食で補おうというわけです。
白米食や白米社会の構造はそのままにしておいて、弱者を根本的に強く健康にするのではなく、その時とその場しのぎの対症的な処方です。
糠(ぬか)層と胚芽つきの玄米と、30品目以上の副食つきの白米、自パンでは、意味も栄養の成りたちも、まるっきりちがいます。
このことに関しては、分散的な説明になりますが、このサイトの中で随時述べるといたします。
要するに白米食では食物どうしの栄養成分にいのち生命のつながりが無いのが最大の欠点です。
食品の栄養を人体の栄養に変換するについて、自米食は玄米食にくらべて何層倍もの過剰労働と作業を必要とし、そうしたからとて玄米と同等にはなりません。
人体は労多くして益少ない強制労働と作業を、毎日毎日義務づlけられるわけです。
五臓六腑や神経が酷使されて弱るのはあたりまえです。
玄米の糠(ぬか)層と胚芽部の成分は、有用微生物群が特に愛好する栄養分です。
この点が重要なところです。
有用微生物は腸内有用細菌叢となって、人体が必要とするあらゆる栄養素のほとんどをつくり出す、玄米は腸内に微生物の健康な共存共生社会をつくり出します。
白米はこうはゆかない。
デンプン質過多の白米は、活動する微生物の種類と繁殖を限定すると同時に偏らせてしまいます。
加えて、30種品目以上の食品はそれぞれ統制のないバラバラな微生物を誘引したり、繁殖させたり、中には化学調味料とか化学添加物とか化学薬品とか放射能などを含有したものがありますから、有用微生物は滅殺されてしまい、腸内細菌社会は殺我と混乱の場になってしまう。
これでは心身ともに弱者が健全に健康になれるわけはありません。
お米の化学成分表を資料に、白米よりも玄米が良い根拠を『米食パワーを見直そう』(福場博保著・ちくま文庫)から関連部分をやや長くなりますが引用させていただきます。
玄米・パワーはこんなにある!
成長期に欠かせないビタミンB1
精白によって、玄米の栄養素からとくに低下する栄養素はビタミンBlです。
B1は体のなかでは、糖質の代謝には欠かせないビタミンです。
(二木謙三博士も指摘しています)ビタミンB1の少ない白米食は、炭水化物の代謝が十分に行われないため、さまざまな欠乏症が多発します。
製薬会社はB1剤を製造して儲け、医師はB1剤を注射や錠剤で患者に一時的に補給して欠乏状態をしのがせてよろこぼれます。
医者も製薬会社も、自米社会と白米食者のおかげで大繁盛です。
玄米食社会になると、そうはいかなくなります。
玄米食を普及させてはならない理由は、こうしたところにもあるのです。
さて、人体は「1000キロカロリーのエネルギーを摂取した時、少なくとも0.23mgのビタミンB1が必要です。
0.4mgもとれば充分と考えられています。
平均的な日本人は、2000キロカロリー程度のエネルギーの摂取が必要とされています。
したがって、0.8mgくらいを毎日とればよいということになります。
最近の食生活は昔に比べかなり変化してきていますので、昔よりもビタミンB1を多く含む食品を食べるようになってきています。
しかし、調理時や添加物や環境の影響による損失を考慮にいれれば、十分な量をとれているとはいえません。
ことに、活発に動きまわる子供たちは砂糖や砂糖含みの菓子類をとる機会を避けられませんから、ビタミンB1の消耗も多く、したがって摂取量も多くなければなりません。
ビタミンB1は、成長期において知育発育に大きな影響力をもつものです。
正常な情緒を養うために不可欠などタミンです。
また、アルコール多飲とビタミンB1の欠乏による症例(ウェルニッケ脳症)などという病気も報告されています。注意が肝心です。」
不足すると恐いビタミンB群
ナイアシン(ニコチン酸の別称)やパントテン酸、ビタミンB1なども、不足すると様々な障害をもたらします。
ナイアシンが欠乏するとペラグラとよばれる皮膚炎を起こし、パントテン酸不足は血圧の低下により疲労しやすくなります。
ビタミンB1は悪性貧血の治療剤としても使われています。
ビタミンB1に劣らず成長期に欠かせない成長促進作用があり、さらに動脈硬化の予防に役立つと認められています。
ビタミンB6はつわり予防に顕著な効果があるビタミンですから、特に妊娠中は留意したいことです。」
玄米食をしていれば、すくなくともこれらが大きく不足するということはありえないことです。
毎日が玄米食なら、適度にたえずゆきわたらせられるわけです。
コリンの肝硬変予防効果
コリン、イノシトールも「B群」のビタミンです。
後者は玄米のヌカ層に多く含まれ、幼児期に成長発育するための促進因子であるといわれています。
高脂肪食やアルコールを多飲する人がかかりやすい脂肪肝や肝硬変の予防に欠かせないのがコリンです。
玄米には100g当たり約70mgのコリンが含まれています。
このコリンは、体の中で、肝臓に異常に脂肪が蓄積する反応を制御する役割を果たしています。
また、コリンはアセチルコリンという化合物になって神経伝達にも重要な役割を果たす物質です。
さらには、高塩分食による血圧上昇の防止効果も報告されています。」
玄米はミネラルの宝庫
玄米と白米を比較すると、成分的には、カルシウム、リン、鉄、カリウムの含有比は、それぞれ玄米の方が、167%、214%、220%、227%と圧倒的に多いのです。
カルシウムや鉄は一般的な日本人の食生活では不足しやすいものです。
このようなミネラルが豊かに含まれている玄米は、日本人にとってすぐれた栄養源です。
その他、各種ミネラル量を白米と比較しました。
微量ミネラル量についても、明らかに白米より玄米の方が量多く含まれています。」
細胞膜を守り、老化を防止するビタミンE
ビタミンEは、従来、生殖をコントロールするビタミンと考えられていました。
ところが、最近の研究によって、単に生殖だけではなく、体全体に対して大きな生理活性をもつものであることがわかってきました。
つまり、ビタミンEは、私たちの体のなかのすべての細胞の膜に分布して、膜の安定に役立っているのです。
細胞膜にはリノール酸が多量に含まれていますが、このリノール酸が酸化されると、膜の機能を劣化させてしまいます。
ところが、リノール酸が酸化される時にビタミンEが膜に存在していますと、ビタミンEは酸化に働こうとしている酸素を吸収して、リノール酸を安全に保護し、膜の劣化を防ぐのです。
もしも、ビタミンEが不足すると、膜が広がり、細胞あるいは細胞のなかで大事な生理活性の役割を果たしている、ミトコンドリア、ミクロゾームなどの活性粒子が破壊されてしまいます。
そして、生理機能が低下します。「細胞膜の門番」として、ビタミンEの役割はきわめて重要なのです。
また過酸化脂質もみのがせません。
過酸化脂質は、リノール酸のような、酸化されやすい脂質が酸化されて生ずる酸化物です。
これらが体内にたまると、ある場合には心臓病、ガンその他の各種の成人病の引き金になる危険性が増大します。
過酸化脂質はタンパク質などと結合すると、リボフスチンというものになり、神経細胞や脳細胞などに蓄積するといわれています。
リボフスチンは、老化色素ともいわれ、老化とともに体内に徐々にたまっていきます。
そして、神経伝達や脳細胞における各種の機能を低下させることになります。
ビタミンEがあれば、過酸化脂質の生成を防げ、過酸化脂質から導かれるリボフスチンの生成をも防ぎます。
すべての細胞が健全で、年をとってもその機能が衰えないようにするためには、すべての細胞の膜組織にビタミンEを十分に配置しておくことが大切です。
ビタミンEは、当初、小麦の胚芽から見つけられましたが、すべての植物の胚芽組織には多量に含まれています。
玄米にも多量に含まれていることは、よく知られています。
にもかかわらず現代人は、玄米を白米にして、ビタミンEやその他のビタミン、ミネラルを捨て去ってしまっておいて、白米を食べ、薬剤化したビタミンEやミネラル類を買い求めて補給しています。
しかし、人工ビタミンやミネラルは、玄米でとる天然のものとは、非常にちがうモノになってしまっていて効能と効果にも大きな差があります。
このビタミンEを摂取するためには、玄米のほかに、胚芽を含んだ玄穀物類を摂るのが正しい方法です。
玄米の食物繊維
玄米に含まれるダイエタリーファイバーの量はNDF値で、白米の約三倍もあります。
NDFとは、セルロース、ヘミセルロース、リグニンの三種の総量のことです。
食物繊維がガン予防するうえで重要な役割を果たしていることは、いまやよく知られています。
ヘミセルロースは腸管を通過する間に、各種の有害物質を吸着し、その排泄にたいへん役立っています。
精米によってこれが著しく減少することは非常にもったいないことです。」
以上のようにお米の精白化(白米化)は、生命の浪費であり、
栄養資源の損耗であり、弱者をますます弱者にするメカニズムに構築されるのです。
お米の精白化は、人間をも、社会をも、国をも地球をも、浪費の果ての身体精薄に仕立て上げます。
そうなってはならぬと、アメリカではすでに十数年前から精白しない穀物を食べる運動が政府の指導で行われているというのに、日本ではいまもって精白礼讃、精白化推進を政府も協賛しているありさまです。
国民をますます弱者にし、一部の特権企業や金持など強者をますます強者にせんがための政治を行っているとみられてもしかたありません。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米食は身心を鍛えてくれる
稲が日本の国と文化を鍛えたと同じに、玄米はこれを食すひとの身心を鍛えてくれる。
稲の尊さ、ありがたさについては、改めて記すとして、玄米はなぜよいのかに関して、この一事だけをもってしても価値ありと考えることを述べておきます。
玄米食をいやがったり、敬遠する大きな理由のひとつに、「噛まなくてはならない」があります。
私にいわせれば、「噛まなくてはならないからこそ、玄米がよい」のです。
日本人にかぎらず、人類が一律に年々弱くなっているのは、噛むことを怠る食生活になったからと、幾多の見識者はすでに指摘しています。
噛むことを不要とする食文化は人類を退化させている、これは事実です。
噛むことを必要としない食事になって、歯やアゴの骨のみならず全身の骨格までもが退化し、それに比例して気力・胆力・忍耐力など精神力全般の虚弱化は昔にくらぶべくもありません。
これらのことに関しては、すでに専門の学者や医師や研究者によってたくさんの証明や警告がなされているので、ここではこれ以上述べません。
玄米食は、これらの問題を解決する食物であり食事法のひとつです。
そのひとつの重要な根拠を、『噛み方健康法』(正食協会編)から引用させていただきましょう。
医学博士で大阪で歯科医をされている戸田外穂氏の一文です。
賢さとたくましさは、噛むという実働からそだっていくのだということを力説したいと思います。
では、どうして噛むことにそんな効力があるかと申しますと、それにはわけがあるのです。
私はこれを圧電気と振動と応力の三点に分けて考えたら合理的ではない かと考えています。
圧電気は、キューリーが発見したものですが、物体に圧力をかけると発生する電気のことです。
骨の場合も誘電物質ですから、圧力をかけると骨の中に電気がおこってまいります。
その電気の電位差で組織は成長するのです。
現在すでに整形外科界などにおきまして、骨折などの場合、治りが悪い時に骨のなかに電気を通し、電気の力によって骨の新生をはかろうという治療法がよい成績をあげています。
噛むという圧力によってアゴのなかに生じた電気もこれと同じで、大事なエネルギー源としてとらえなければならないと思っています。
振動は、揺れ動くことです。
振動にも種類があるわけですけれど、特に強制振動というのは、打刃物をつくるときの鎚と鋼との間に生まれる類のもので、これがアゴの場合も大変有効な働きをします。
噛んで振動がおこると、アゴも歯も、そして脳も、体全体が刺激をうけて丈夫になっていきます。
それを物理学では、整序化するとか、秩序化するといっています。
どういうことかというと、たとえばお盆の上にマッチ箱をひっくり返すと、マッチ棒は非常に乱雑な形で並びますでしょう。
しかし、そのお盆をコンコンとたたいてやると乱雑だったマッチ棒が平になって、だんだん並び方がそろってきます。
このように、体をつくっている原子や分子や細胞を秩序化してきちんと並ばせる力は、噛むという振動によって出てくるということです。
噛むことで発生する振動は、決して大きな振動ではありません。
でも、それが脳や脳下垂体に伝わり、神経やホルモンを通して伝わっていくことを考えると、大きな意味をもっています。
それから応力です。
これはパンを焼いたり茶碗を焼くとき、小麦粉や粘土をよくこねるほどいい焼き上がりになるのと同じで、アゴにもこねるというような力がどうしても必要になってきます。
特に子どもたちや授乳児の場合、アゴに圧力がかかることによって、アゴのなかに芽生えてる歯の芽が秩序化されるわけです。
ちょうど、おにぎりを握るように外からしっかりアゴに力をいれます。
一本の歯が一個のおにぎりとしますと、同じ体積にひとつぶでもごはんの多いおにぎりを握ると、密度の濃い堅いおにぎりになるわけですから、歯も力を入れて噛めば丈夫なたくましい歯に育ちます。
歯は外から歯の種をもってきて播くと生えるわけではありません。
すべて、アゴという骨を土壌として、その中から自然発生的に生えてきます。
ですから畑ともいうべきアゴの骨を充分に整備しておくことが大切な条件になるのです。
体に四余ありと書物に出ています。
髪は血の余り、爪は筋の余り、色は気の余り、そして歯は骨の余りだと教えています。
骨と歯はそれだけ関係の深いものと昔からみられたわけですが、骨にしろ歯にしろ、これらを作る成分がち密に、しかも秩序正しく配列されていることが豊かさの証明なのです。
そしてその密度をつくるのが噛むことによって加えられる応力だというわけです。
一年に365日、一日に3回食事をいたしますと、年に1100回はどの食事をするわけですけれども、一回の飲み込みで2、3回しか噛まないのと、50回ほど徹底的に噛んだ場合とを比べると、年間にして実に百数十万回という差が出てくるわけです。
チリも積もれば山の諺どおり、蓄積というのは非常に大きな力になって返ってきます。
玄米正食法では、最低でも60回、難病奇病を治すためには200回〜300回噛むことにしています。
噛むことによる恩恵に浴するためです。
噛むのはめんどうくさい、というのは、生きるのはめんどうくさい、というのと同じです。
歯やアゴの存在を無視するのは、生を放棄してるのと同じではありませんか。
ところで、いまの大人たちは子どもに、生を放棄し、放棄させる生き方を奨励しています。
噛むしつけをしないどころか、噛む必要のない食べものを与えて、それで食事をさせたと考えている。
この点に関して戸田氏は、次のように述べてもいます。
「ひどい場合は、固型のものは受けつけず、ドロドロとノドに流し込めるものしか食べないとか、せっかく食べても、横からお茶やジュースでもって、まさに水洗トイレのように流し込まなければ飲み込めないという無気力な子どもがたくさんでてきています。
子どもが喜ぶからと、噛む必要のあまりないハンバーグやトーストやクリームといった食べ物を与えたり、お母さんが楽だからと寝ころがせて授乳したり、授乳時間が早くすむからとゴムの乳首の穴を広げたり、そういったことが、あたかも近代化の美徳のように考えられている、そこには深い問題があるわけです。」
お母さんだけがわるいのではありません。
文部省や学校は、学童の歯を丈夫にしよう、頭をよくしからだを丈夫にしようといいながら、甘くて軟らかくて噛む必要のない、しかもさまざまなるインチキやゴマカシを幾重にも加えた飲食物の製造と宣伝と販売を、ほとんど放置状態です。
放置どころか奨励するがごとき姿勢です。
政府は、憲法で国民の基本的な健康を守ることを義務づけられているにもかかわらず、国民の歯や骨や頭やからだを弱く悪くするような食品や食事法を推進している。
推進しているという表現が不当なら、放任しているといえましょうか。
この際、国民こぞって、お米をよく噛み直すとともに、政治、経済、教育はもとより憲法に至るすべてを、よく噛みしめ噛み分け直す必要があります。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米正食法および正食医学の源流
石塚左玄と桜沢如一
近世から現代にいたる玄米食および食べもので病気を治す道を守り伝える諸先達の中で、石塚左玄と桜沢如一は欠くことのできない偉人です。
石塚左玄に関しては、食養医沼田勇博士が『幕末名医の食養学』の序章で「自然食の創始者、石塚左玄」という簡潔な記述をしています。
その一部を引用させていただきます。
「石塚左玄は嘉永四年(1851)、福井藩の漢方医、石塚泰助の長男に生まれました。
アメリカのペルー提督が浦賀に入港する2年前のことです。
石塚家は忠臣蔵で名高い大石内蔵助の末娘の子孫で、福井に移り住んでからは代々、漢方医を業としてきました。
左玄の名は、福井藩出身の志士、橋本左内が選んだものです。
左玄は、12歳にしてすでに医師としての腕前を認められていました。
幕末の名医といわれる所以です。
しかし、彼はそれで満足することなく、福井で漢方医学をはじめ理化学、動植物学、解剖学などを学び、さらに独学でオランダの原書を読み天文学も学びました。
明治元年(1868)18歳のときに福井藩医学校に勤務し、同四年(1871)橋本左内の弟で日赤初代病院長と東校(東大の前身)の外科教授を兼ねる橋本綱常を頼って上京すると、翌年、東大南校化学局に入り、その翌年には23歳で、新しい時代に即応した、本格的な医師及び薬剤師の資格を得ました。
明治21年には第一回東京医師開業試験委員、29年(1896)には陸軍少将、薬剤監に昇進したのち退役しました。
その3年前の26年(1893)に『化学的食物塩類篇』と題する研究論文を発表していますが、このとき左玄は、
- 食品をナトリウム塩の多い順に並べていくと、ナトリウムが少なくなればなるほどカリウム塩が多くなること
- ナトリウムの多い食品は漢方で陽性、カリウムの多い食品は陰性といわれてきた食品であること
を発見しました。
石塚左玄の業績はたくさんありますが、その中で特に偉大なのが、右の傍点に記したことといえましょう。
すなわち、食べものには陰と陽の性質があり、それは食品成分中のナトリウム、カリウムの多寡によって決まることの発見です。
この発見は、のちに桜沢如一に引き継がれます。
そのまえに、石塚左玄に関して、もうすこし述べておかなくてはなりません。
彼は明治29年(1896)6月『化学的食養長寿論』を著し、さらに2年後の31年(1898)に 『食物養生法 − 化学的食養体心論』を発行し、前記傍点部の解説および「正しい食物によって病気は治る」ことを主張します。
明治40年(1907)に左玄の主張に共鳴する人たちが食養会を結成、月刊の食養雑誌を発刊することになります。
石塚左玄の生涯にわたる業績に関しては、桜沢如一著『石塚左玄』(日本CI協会刊)、すでにたびたび参照させていただいている沼田勇著『幕末名医の食養学 − いま直る石塚左玄の粗食健康法』(光文社文庫)、萩原弘道著『栄養と食義の系譜』(サンロード刊)などをお読みください。
さて、桜沢如一は、明治26年(1893)10月18日京都に生まれています。
14歳の時母と死別、この頃から体調を崩し16歳肺結核発病、肺結核をも病み、そのほか婦人病以外のありとあらゆる病気を体験したと述べています。
20歳(1912)の時、石塚左玄の食養法により健康を回復、左玄の食品のナトリウム、カリウム成分比による陰陽論にヒントを得て、古代中国の「易」を独自に科学的に分析、解析、編成した「無双原理」を編み出します。
この間、24歳の時、社団法人食養会に入会、食養活動のかたわら、さまざまな学問の多角的な研究と運動を展開、昭和14年(1939)食養会を去るまでの間、監事や会長職などを歴任しています。
左玄は明治42年10月に死去しておりますので、両者の直接の面接や師弟関係は無く、食養道および食養会を通しての関係ということのようです。
桜沢は、石塚式食養法によって自身が救われたこともさることながら、石塚左玄のかんながらのみち惟神道に邁進する純日本精神の心根に心服しています。
著書『石塚左玄』に、やや古風な表現ですが、次の献辞をしています。
「彼(石塚左玄)は明治年間に於て最も徹底的に非日本精神に対抗し、最も壮烈な戦いを戟ひ、且つ最も悲惨な最期を遂げた唯一人の精神的戦士である。
彼は科学に於ける日本精神の優越なる位置を今日より半世紀以前に確立した唯一人の日本精神の科学者である。
彼は東洋独特の哲学を西洋流科学用語をもって解説した一人者である。
彼は明治の近江聖人である。
この一文は、左玄がいかに桜沢に大きな影響を与えたかを推察させます。
桜沢は左玄を見習って、西洋流科学用語をもって古代中国の「易」の解説をし、それを陵駕するともいえる普遍的「無双原理」を組み上げています。
「無双原理とは、万物万象陰陽より成る」の原理で、彼は著書『宇宙の秩序』(日本CI協会刊)によって「陰陽」の成り立ちを解説しています。
そしてこの原理によって、体質の陰陽をはじめ健康・病気の陰陽など、左玄のナトリウム・カリウム論を根底にして発展させています。
左玄のナトリウム・カリウム理論は、桜沢によって大きく開花したのです。
そして桜沢により編み出された「無双原理」と「正食法」は、日本国内でよりも海外において��マクロビオティック″(正食法)、または「マクロバイオティック」の名称で世界的に広まることになります。
東洋文化および東洋思想、および新しい世紀の宇宙観・世界観・生命観を求める西欧人は、桜沢の思想と哲学に科学を超える理論と原理のあることに注目しはじめているのです。
桜沢は、まずはじめに西洋医学に東洋の陰陽理論をとり込ませるべく、挑戦しました。
そのひとつとして、世紀の聖人と称されたシュバイツアー博士をアフリカに訪ね、西洋医学と医療に東洋の食理論と食物療法をとりこませるべく試みます。
しかし彼の意図は通じず、成果を挙げることはできずに終ります。
彼が終局の目的としたことは、東洋哲学と西洋科学の融合融和の橋渡し(掛け橋)になるということでした。
東洋文化と西洋文化、東洋精神と西洋精神、両文明の平和の橋渡しになる、生涯をそれに捧げる一生でした。
次の歌には、そうした彼の心根がこもっています。
飛ぶ鳥の 天駆けるごと 飛びゆきて 行方は人に 知られじと思う
山にかくれて 人知れず 死ぬるが如く 果てむとぞ思う
桜沢は自身を、陰性体質人間とみなしました。
それゆえ彼の玄米食法は、陽性志向の食事法で、食物や食品の選択、料理調理法、食べ方、日常生活法全般にわたって陽性優先、優位の基調を否めません。
二木式玄米食法とは対称的です。
どちらも指導者の体質が、食法の特徴となっています。
二木式が、二木謙三氏の陽性体質を中和させるべく塩分をひかえた、あるいは無塩優位の調味に対して、桜沢式は陰性体質むきの塩分を強調した調味傾向です。
桜沢の「無双原理」は、陰陽の偏向をなくし、正しい中庸に調和させるための必要欠くべからざる発明であったわけです。
これを学ぶことによって、いずれの体質者も、体質や症状や状況や環境の変化に応じる食事や生活など身の処し方を判断することができる、ここに桜沢理論の特徴と普遍性があります。
食物の性質が、そこに含有されるナトリウムとカリウムの成分比によって陰陽の性となるという石塚左玄の発見は、桜沢如一によって体質への陰陽判定へと発展し、健全な赤血球のナトリウム・カリウム比は1対5、そしてこの1対5の比率は地球における求心性力と遠心性力に由来する宇宙法則であるという発見に至ります。
ここに、健全なる人体の赤血球のナトリウム・カリウム成分比率は1対5が基本条件であり、体質の陰陽の測定基準に応用されることになります。
すなわち、カリウム成分の多い飲食を常習しっづければ陰性体質化し、陰性体質に派生する疾病に陥りやすくなり、反対にナトリウム成分の多い飲食を日常とすれば、陽性に偏した体質と疾病に陥りやすくなると診断し、判定できるわけです。
赤血球を検査するまでもなく、プリヤ・サヴァランではありませんが、何を、どのように、どれだけ食べたかによって、体質も病気をも知ることができるわけです。
石塚左玄も桜沢如一も、ともにその理論を十分に臨床的検証に至らぬまま他界しています。
この検証は、いま、大森英桜(1919〜)に玄米正食法および正食医学として引き継がれています。
大森は両氏の欠陥を補充するとともに、桜沢自身も果たし得なかった��食″における「宇宙の秩序」の実践に身を挺して実証中です。
私がこの本で述べていることは、「正食医学」理論にもとずいた玄米正食法の基本です。
石塚左玄の食養論は、桜沢のほかに「食養」としていくつかの支流となり、現在も継承されています。
桜沢如二の「無双原理」と食医理論および思想は、大森英桜の「正食医学」のほかに、「マクロビオティック」として世界各地(アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、インド、東南アジア等)で弟子や会員によって継承されて展開中です。
注 プリヤ・サヴァラン(1755〜1826) − フランスの食通家。『味覚の生理学』『美味礼賛』等の著者。「何を食べているかで人が分かる」は有名な言葉。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米基本食の要旨
原則として、一日二食がよい。
自分で規則正しくつづけられる二食の方法を、自分で決めるのがよいでしょう。
たとえば、いま病気治療中とか療養中のひとは、午前十時と午後六時頃を正規の食事時間とします。
こうできれば理想的です。
勤めや仕事などの関係上、世間一般の時間割ですごさねばならないひとは、朝と夜の二食事を玄米食として、昼は軽く一椀程度のうどんかそばか、パンの一片程度にします。
あるいは、朝をごく軽食にして、昼に玄米のお弁当、夜は自宅での玄米食にしてもよいでしょう。
ゲルソン療法
要は、いままで三食を習慣としてきたひとなら、二食の玄米食に変えきれれば、体調はすこぶるはやく好転しはじめます。
三食でないと、どうしてもおちつかない、気が安らかにいられないひとは、一食を軽く摂って済ませることです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米は生きている
二木謙三博士(1873〜1966、文化勲章受賞者)は二木式健康法で玄米食を普及された。
その普及活動の中で、玄米の生命力に関して「活動性類脂体」を指摘しています。
「活動性類脂体」は生きた食物にしか存在せず、死物には存在しない。
博士はこれを「生命素」と名づけました。
そして次のように説明しています。
「活動性類脂体は、特種な働きと、特種な性質と、特種の生理的機能をもっている。
これは脂肪と水との中間物体で、微細な結晶であるが液状をもしており、液状結晶の性質もあり、有機体無機体との中間体として存在し、多量の無機分を含みながら有機体を有し、さらには死物と生物との中間体に位して、生けるに非ずして、生けるが如き作用をする。
これが存在すれば、脂を水に混じ、固形物を液化し、無機物を有機化し、地上の森羅万象の生物を繁茂させる大魔力を有する根源である。
この不思議な魔力は、はじめ無機有機の中間体として現われ、有機物を作り、次に微細なる植物界に現われ、順次発展して、動物界はこの恩恵にあずかっている。」(『なぜ玄米でなければならぬか』大日本養生会刊)
玄米には、この「生命素」がたくさん含まれている。
この「生命素」が病気を治すのみならず、健康を確立してくれる、というわけです。
ここに述べられた「生命素」は生きた食物にしかない、という点が重要です。
- なぜ自然米がよいか、
- なぜ自然農法野菜や果物がよいか、
- なぜ自然塩がよいか、
- なぜ自然酒や自然酢がよいか、
- なぜ古式伝統醸造味噌醤油がよいか、
- なぜ天然自然の空気や水がよいか……、
それはすべて「生命素」があるからです。
「栄養成分」もさることながら、「生命素」の方がさらに根本的に重要です。
なぜなら、「生命素」は「栄養」を産生したり、「栄養」に変換し転換するからです。
過剰に手を加えた加工食品や人工産物は、生きた食物ではありません。
死物も同然です。
死物も同然どころか「死毒素」的なはたらきをするものが多い。
そうした成分をたくさん含んだ加工食品や薬物類をさかんに摂りながら、病気を治したい、病気になりたくない、健康になりたいと願っても、それはムリというものです。
「類脂体は生命素である」ということから、類脂体的加工食品が明治以降、急激に一大産業化しました。
活動性類脂体的なモノであれば生命素があるがごとき宣伝広告や教育がなされて、加工食品が日常食品の王座を占めるに至ります。
たとえば、
・牛乳と乳製品(バター、クリーム、チーズ、加工乳飲料)、
・牛乳と乳製品と砂糖をベースにした製品(キャラメル、アメ、チョコレートなど)、
牛乳と卵と砂糖をベースにした製品(菓子パン、ケーキ、アイスクリーム類、ソフトドリンク類)、
・卵と砂糖と果物をベースにした調味料類(マヨネーズ、ケチャップソースなど)、
・砂糖と果物をベースにした発酵食品や酵素飲料類、これら牛乳、卵、砂糖、アルコール類はどれもみな、ある種の類脂体物質です。
しかし人為加工されれば活動性類脂体ではなくなってしまう。
不活動性類脂体となってしまう。
これゆえに、これらの加工食品の消費量の増大と化学薬品(主として抗生物質薬)、化学食品添加物、化学調味料類の使用量の増加に正比例して、アレルギー体質、アレルギー症状、アトピー性疾患が増進している。
不活動性類脂体と過剰摂取タンパクを消化排除しきれないからだが病気となって出現したわけです。
「類脂体」であればからだによいはず、という程度の判断による加工食品化は、消費者をいつわり、あざむく、企みの工業化、企業化にはかなりません。
生きた食物の生命素を、さらにゆたかな生命素にする生きた食物の開発を行う、そのような農業であり食糧食品産業でなければならない。
ところが現実は、「病毒素・死毒素」をいかに「生命素」的に上手にあざむき、ごまかすかの開発に産業界全体がつとめているかのごときの加工食品化です。
明治以降のわが国加工食品産業の特徴は、「栄養」と「生命素」にこと似せて、ごまかして、人工加工食品を大量に消費させ、人体に摂取されたのちの「疲労素、老廃素、病毒素、死毒素」の発生と発現は、消費者の責任という、実に自分勝手な経済優先の論理で進んできているのです。
体質改善や病気治療どころか、体質の改悪と病気づくりが推進されてきたといえる。
これを改善・改革するには、まことの「生命素」とは何か、それはどこに在るか、を直視して正しい理解をすることからはじめるしかありません。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米の長所と短所
玄米の是否論(良いと良くないの論)は、これまでたくさん出されています。
それらを含めて私見を述べるといたしましょう。
玄米の長所
(1)玄米には栄養がある、生命力がある
玄米の栄養は、人体になじみやすく吸収されやすい。
栄養のバランスがよくとれている。
その生命力は、地に播けば芽を出し自己復元の再生力がある。
現代栄養学は、卵や牛乳を完全栄養食晶とみなしているが、それは雛鳥や子牛にとってのもので、人間にとっては完全ではない。
人間の子には母乳が最良の栄養食品であり、人間には植物性食物が自然の摂理にかなっている。
動物は植物に養われるのが生命の秩序であり、宇叫宙の法則で定まっている。
人間にとっては卵や牛乳などよりも、玄米こそ完全食品です。
(2)玄米は、よく噛むことを要求する
噛むことによりアゴや歯、歯槽骨、米カミ、頭ガイ骨、頭脳等を等せ、鍛える。
顔をよくする。
血液・体液は濃縮される。
(3)玄米は唾液の分泌をさかんにする
玄米をよく噛むことにより唾液の分泌はさかんになり、消化酵素やホルモンのはたらきが活票なり、生理活動がさかんになる。
(4)玄米には良質の食物繊維がある
食物繊維は胃腸のはたらきをととのえ、便秘や下痢を治して排箆を正常にし、快便にする。
宿便をとり、新陳代謝を促進する。
陽は健全になり、紙が要らぬほどの快便になるから地球資源節約にも貢献する。
またこれは、発ガン性物質を吸着排除するから、ガン予防をする。
ガン再発を防ぐ為のおすすめ食事☆「有機(自然農法)玄米+雑穀米」
(5)玄米には、解毒・排毒・中和・浄血力がある
玄米を食べていたおかげで、集団農薬禍の事故死をまぬがれた例。
広島・長崎の原爆被災しながら放射能による障害や病気をまぬがれた例。
私自身、種々さまざまな医薬品を少年時代から長年月にわたって大量に常習したにもかかわらず、生じっつあった薬毒障害を未然にのがれられた。
玄米には解毒と旺盛な新陳代謝力があります。
(6)玄米のデンプン質(炭水化物)は最高である
草花の強弱、色の鮮明な美しさ、生命力、これらはその草花の炭水化物の質の良否に左右される。
同様に、人体の血液の質も、脳エネルギーの燃焼効率も、日々の食物の炭水化物の質に左右される。
玄米のデンプン質は、血液にも頭にも最良質で、血液の質のみならず血液循環や脳血行をよくする。
(7)玄米は長期の保存に耐える
玄米で保存すれば十年は確実に保存に耐え、種用にも食用にも可能である。
糒(乾飯)として二十年間保存することが、わが国古代の食糧政策でもあった。
(8)玄米食は少食で済む
くらし少食は身心を健やかに軽くし、生活を簡素にする。
ムダをなくす。
(9)玄米食は、産業経済のムダをなくす
正しい玄米食は病気と病人を半減させる。
地球資源の浪費・損耗を減少させる。
(10)玄米食は公害(環境汚染)を増長させない
今日の公害の根源は、精白・精製文化思想による。
必要以上の精白化と精製化が地球環境汚染物質を産出した。
「食」の精白・精製化を改めないかぎり、公害の根本解決ははかれない。
(11)玄米食は、水田稲作農業を復活する
農業を衰退させる国および文明は、滅亡する。
これは歴史の教訓。
水田稲作農業は、人類の叡知の結晶。
(12)玄米食は、人類の食糧状勢を正常にする
米、ムギ、トウモロコシは人類の主食であるが、米はもっとも理想的な食糧である。
この理想的な食糧の、理想的な食べ方は玄米食で、これの推進は人類の健康と平和につながっている。
地球の自然生態系を正常に循環させることになり、人類のみならず、すべての生物と共存共栄の基盤づくりとなる。
(13)したがって玄米食は、地球と地球の自然環境の健康をとりもどす基本食にほかならない
富山和子氏(立正大学短期大学部教授『水と緑と土』等の著者)は、著書『日本の米』の中で、稲の優秀性について次のように述べています。
「稲は、……他のあらゆる植物にも増して優れた作物であった。
第一に、栄養価が高く、栄養のバランスにおいても優れ、
第二に、生産性の高い作物であり、
第三に、長期間の保存に耐え、そして、
第四に、おいしかった。
その栄養価の高さをいうなら、カロリーでは白米で小麦とほぼ等しく、良質のタンパク質を含むことでは他の穀物に較べて群を抜いている。
日本人が今日まで米を主食としてくることができたのも、また米を基本通貨とし、給料の役割、貨幣の役割、金の役割を担わせてくることができたのも、そんな国が世界には他になく、またそんな時代がつい最近まで続いてくることができたのも、根底には『米さえ食っていれば』という『命の根源』への絶大な信頼があったからにはかならない。
それこそは、その栄養価の裏打ちがあればこそであったろう。」(同書一九頁)
ここでいう「米さえ食っていれば」の「米」は玄米のことだと、私は解釈しています。
玄米なら、ここに述べられていると雷であり、「命の根源」として��絶大の信頼�≠ノ応えうる食べものにちがいないからです。
白米(精白化=精薄化=精神の薄弱化)は、稲作と米へ範轡還落させます。
命の根源としての栄養価を欠落させるのですから、絶大なる信頼を裏切り、欠落させ、それを補充する栄養食と生活法を追求させます。
ラクをして美味なるものを飲食するという安逸と堕落の精神が、精白化によって促進加速され大衆化するわけです。
精白、精製思想と生活は、安逸を通して人間の堕落と破壊の基盤づくりをしている のです。
玄米の短所
アバタもエクボで、私には長所に思われることでも、いまの世間通念では短所にみなされていること、それを次に記しましょう。
(1)色が黒くて見た目がわるい、気味わるい
うるち玄米の色は、実際は茶褐色です。
アメリカ、ヨーロッパでは玄米を、ブラウン(茶褐色)ライスと呼んで玄米の色をそのまま自然食の代名詞にしているほどで、純白こそ異常な加工がなされたものと気味わるがられます。
日本では白は清潔と清浄を象徴し、衛生を意味する色であるかのごとき先入観があります。
病院などで医師や看護婦の白衣を見ただけで畏怖して盲従的になってしまう。
食物や食品に関しても、この傾向がつよく支配しています。
「白は善、黒は悪」の偏見です。
(2)玄米は農薬に汚染されている
皮を剥いで白米にすれば、表皮の農薬は除去されるから白米のほうが安全で、玄米は危険という考え方。
農薬や化学肥料の使用や、米の精白化をそのままにしておきたい人たちの見解。
白米食と玄米食では、体内に残留する化学薬物の度合いは自米食のほうがはるかに大量で高い。
白米のほうが危険度は高い。
玄米と白米と、農薬など化学毒性物質を体外に排泄する力はどちらがすぐれているか。
現在は水銀農薬は使用禁止になって使用されていませんが、当時の試験データを参考に掲げてみます。
食べた時は玄米のほうが多量の水銀を摂取することになりますが、体内残留量はずっと少ない。
玄米が異物や毒性物質を排泄する力にすぐれていることを証明しています。
発ガン性物質などを排除してガン予防にすぐれているのは当然のことです。
フランスの生化学者ユベール・デカン氏は玄米の排毒性能に関して、次のよう記しています。(「ル・コンパ」誌、85・11〜12月号)
「玄米は体を掃除したり清めたりすることにおいては際だった穀物である。
というのも、それが完全にプリン体を持っていない唯一のものだからだ。
それゆえどんな有毒廃物をも残さないのである。
しかしながら、穀物はもともと全般的にプリン体は乏しい。
小麦も100グラム中のプリン体の総計は35ミリグラムまでである(いずれにせよ、小麦のプリン体はカフェインのようにトリメチルプリンを完全に免れている。それは肉や他の動物食品の場合とちがう)。
それに対して、肉汁エキスにはそれが100グラム中3068ミリグラム含まれており、肉には155ミリグラム、コーヒーには1160ミリグラム、チョコレートには620ミリグラム含まれている。
このことは、治療時に食べ物のベースとするためには、他のどんな直接栄養分よりもお米が選ばれることを明らかにしている。」
(3)玄米は炊くのがむずかしい
白米を自動炊飯器で炊くのよりは、やや手数のかかるのは事実。
しかし炊くコツを習得してしまえば、なんでもないこと。
正しい食べものへの理解と愛情の問題。
(4)玄米はポロポロしていて、まずくて、消化がわるい
こころをこめて炊き、よく噛んで食べたことのないひとの偏見。
噛むことをめんどうがるひとの先入観による偏見。
(5)玄米は腐りやすい。
虫がつきやすい炊いた玄米は消化されやすく栄養もあるから、保存のしかたによっては腐りやすいのは事実。
また生の玄米でも炊いた玄米ごはんでも、生命があるから虫に好まれるのも事実。
しかし、いずれも正しい扱いをしさえすれば、他の食物と比較して特に問題になることではない。
(6)玄米に含まれるフィチンはカルシウム摂警阻害する
ゆえ、玄米食は骨を弱くする
こうした短所があるゆえ、玄米正食法ではフィチンを中和し、阻害されるカルシウムを補充する黒ごま、ひじき、こんぶ、わかめ、のり、凍み豆腐、小松菜、大根葉などのとりあわせがなされている。
白米、白パン、精白めん類に動物性食品その他の加工食品の現代栄養学による食物が、それでは骨を丈夫にしているのかどうか。
骨粗しょう症や脊椎側わん骨症や骨折の多発が、いつになっても減少しない、解消の兆候すらないのはどうしたことか。
(7)玄米食が普及すると、精米業をはじめとして糠(ぬか)を利用する産業・商業、白米によってなりたっている産業・商業には支障が生じる
(8)玄米食になると病気と病人が減るから、医者・病院・医薬・農薬・化学肥料・加工食品類の需要と消費は半減する
ゆえ、該当する産業商業経済は減退せざるをえなくなる(こうした産業商業流通経済が繁栄するのがよい国、よい社会なのか、みんなで、いくどでも、よく考えてみる必要がある)
(9)玄米食は、健康と経済の強者に好まれない
健康と経済の強者は、白米や精製加工食品で不都合なく活動していられる。
それゆえ、玄米や玄米食に関心を示さない。
関心を示さないのみならず、経済性の乏しいものとして蔑視する。
健康と経済の強者の中にも、玄米と玄米食を正しく理解して個人的には実践するひとは多い。
しかし国民食にするには至っていない。
玄米を国民食にするに至っていないどころの話ではありません。
おいしいといわれる白米でさえ、その消費は年々減少して、米消費拡大運動が進められている始末です。
お米の消費そのものが減退し、お米というすぐれた主食が主食ではなくなりつつある状勢です。
お米が主食の座を他の食品にゆずるということは、日本人が日本の心を失うということでもあるのです。
日本という国に住みながら、日本の心を失うとは、いったいどうしたことでしょう。
日本人は島国根性がつよい。
人類は、近い将来、地球一家の同胞にならなければならない。
それには島国根性から脱却して、国際人にならなくてはならない。
国際人になるためには、地球上で産するものをなんでも自由によろこんで飲み食いできなければいけない。
米にとらわれていては、良き国際人になれない。
食のグローバル化こそ、日本と日本人にとって正しい食生活である、というような意見があります。
たいへんもっともらしい意見です。
しかし、たいへん間違った見解です。
人類がみな等しく同胞になるのには、居住する風土の土着の生活が優先的に尊重され、大事にされる互敬の精神が守られなくてはなりません。
身土不二の原則が遵守された上での、人類みな同胞、地球表、世界連邦、世界政府でなくてはならないのです。
健康の原理が確立して、平和は前進するのです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米の素晴らしさの原理
風にそよぐ稲
「噛むということで発生する振動が、体をつくっている原子や分子や細胞をきちんと並ばせて、秩序だてる力となっている」
という戸田博士の話を聞いた時、私の頭に、風にそよぐ稲の水田風景が展開したのでした。
風にそよぐ稲を、遠くで見るのと、近くで見るのとでは、異なった動きを見ることになります。
静かな海や湖の表面のように波うつ遠景と、一葉一葉が草笛のようにブルブルふるえて噴きあっているような近景と、さまざまな風景を観察できます。
そのいずれもが振動が原因になっている。
圧電気も応力をも含む振動です。
稲は籾種から芽を出した瞬間から、稲穂となって頭を垂れ、刈り入れられて脱穀されるまでの全期間、およそ一刻の休みなく変幻無限の振動を受けている。
私は、玄米を食べはじめて以来ずっと毎日、玄米はなぜ私や病弱者に良い食べものなのか、を考えつづけてまいりました。
そして戸田博士のこの講演と論文にめぐり会って、ひとつの大きな根拠にめぐり会ったのでした。
まさに神示といえます。
お米はなぜすばらしい食物か、お米のデンプン(炭水化物)がなぜに他のデンプンより質がよいのか。
お米のタンパク質、脂肪、ビタミン、ミネラル類、これらすべてが他の食品の同名の栄養素よりも人体に適合しやすい最上等品質なのか。
この理由の一端を稲の一生の振動体験に発見したのです。
稲の一生にとっては、振動などはひとつの小さな生命鍛錬因子にすぎないかもしれません。
しかし、この振動だけでも、お米の原子、分子、細胞等が信じがたい高度で精妙な整序化、秩序化を受けるのはたしかです。
人が口で食物を噛むの比ではないでしょう。
振動のほかに日光、水、土、微生物、昆虫、人間の手、さらに温度、明暗、朝昼晩、四季、電波磁波、放射線、月星など、これらかぞえきれないさまざまな生命因子を受けて稲は一粒一粒の米を結ぶ。
正しい歯を形成し成長させるのには、��振動〃が不可欠なのを学んで、私は玄米の質の優秀な理由のひとつを水田稲の振動に納得するのです。
風は大気、宇宙のバイブレーション(振動)です。
エネルギーは振動の変形したものです。
太陽系宇宙を誕生させ、大宇宙の秩序に従わせて整序化した運行をさせているのも、じつは「振動」にちがいありません。
そもそも、この世の産みの親は「振動」にはかならない、とまでいわれています。
そして水田稲ほど、さまざまな振動をさずかる植物は、他に見当たりません。
稲にその舞台を提供しているのが水田であり、水田稲作技術は人類がつくりあげた最高の農業技術にまちがいありません。
水田は、まさに、天地人合作の生命の道場であり、稲は宇宙生命を生物生命にする原子転換炉であり、米は光の命の結晶なのです。
水田がどれほどすばらしい財産かは、富山和子氏の諸著書などをご参照くだきるのがよいでしょう。
このように、お米はすばらしい生命体なのです。
風にそよぐ稲は、天埠の振動を己の生命に転換調和させる舞いにすべく、敬い舞っている姿にほかならないのです。
生命秩序化の舞いなのです。
わがご先祖が水田を開発されたのは、稲に心地よい舞いをせしめることによって、米を生命の結晶とする技術(わざ)を、こころえていたからです。
風にそよぐ稲の水田と、稲作に育まれる生活風習は、天地人合作のかけがえのない宝物です。
いかなる科学工業技術をもってしても、とおくおよぶべくもないでしょう。
水田稲作農業の精義を見失ってはなりません。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米の構造は人体の消化吸収の秩序に合致
「日本人はお米のお化けである」という意味のことを安藤昌益が述べたことは、まえに記しました。
お米が日本人になったといって良いほど、日本人は心身ともに「稲」のおかげをこおむり、「お米」の生命力をきずかっているという意味です。
お米は、世界各地で生産されています。
それぞれの土地や国の米は、それぞれの土地に生活する人びとに適していて、お米ならどこの国のものも同じとか、どれを食べてもかまわないという考えは、まちがいです。
もちろん、旅行した時とか、しばらくの滞在でその土地のものを食べる程度のことはかまいません。
しかし、遠民がこぞって、異国・異風土産の食物を輸入にたよって主食にして長期間常習すると、やがて健康を害することになります。
今日、原因不明とされがちな病気や虚弱化は、不自然な輸入農産物や加工食品に由来する点も大きいのです。
因果関係を立証できないという理由で、放置放任されている。
しかし、昔なかった不健康症状や病気の多くの原因は、こうしたところにひそんでいます。
国々によって土壌や水質や大気質や日照などが、みなちがいます。
そのちがいは、お米の品質のちがいになっていて、異風土産食糧や食品の常習は、いつしかからだの陰陽バランスを偏らせることになります。
一例として、沼田勇博士は、次のような指摘をしています。
「アメリカの土壌は日本と異なり、ビタミンEの数百倍の抗酸化作用をもつというグルタチオン・ベルオキシターゼの構成要素セレニウムが少ないのです。
日本人に比較的ガンが少ないのは、米に含まれるセレニウムのためだと、考える人もいます。
発ガン性農薬をくらった、セレニウムの少ないカルフォルニア米を歓迎したがる人の神経が、私にはわかりません」(沼田著前掲書)
玄米に含まれている栄養成分は?効果・効能のほどは?
すなわち、日本のお米は、カルフォルニア産にくらべ天然自然のセレニウムなどがほどよく含まれているゆえ、国産米を食べてきた日本人はガンにかかりにくい体質の国民であった、という説明です。
ところが、発ガン性を心配されるポストバーべスト(収穫後の農薬散布)処理がされ、しかも成分上も日本のお米に劣るものを歓迎するとはなんたることか、という訴えです。
お米にかぎらず日常の食物は、土地の産物がいちばん良い、のはいうまでもありません。
「身土不二」の原則は、人類みな守るべきことです。
外見が似ていれば、どこの国の米でも肉でも果物でも野菜でも飲み物でも、たいしてかわりないというのは、頑健な肉体を生まれながらにきずかった一部の強者の暴論暴言です。
とくに日本のお米は、地球上に類例をみられない恵まれた地理条件によって、栄養的にも生命エネルギー的にも日本人に適した調和した食物です。
お米のおかげで、今日の日本人が在り得ることを、しっかり理解しておかねばなりません。
日本人の心身は、稲とお米によって構成されているといっても過言でないことを、しっかり学びとる必要があります。
まさに安藤昌益のいうとおりなのです。
私はその一例を、玄米が消化吸収される秩序の中に、次のように観察するのです。
玄米の消化と吸収の秩序を考察する前提として、宇宙およびこの世の「三層構造」について観察しておきましょう。
地球生態系は、気体・液体・固体の三層から成っている。
大気圏・水成圏・鉱物圏の三層とみなしてもよいでしょう。
同様に、というかこれゆえにというべきか、生物は形態は異なっても、生態はこの三層構造と機能(関係)の相似象です。
単独で分離して存在するものはなく、みなつながりあっています。
ひとのからだを例にとれば、皮膚・筋肉、骨とか、栄養素でなら脂肪・タンパク質・炭水化物とか、生活必需品は衣・食・住であるとか、このほか天・地・人の関係とか、陸・海・空、動物・植物・鉱物とか、立法・司法・行政の三権とか、真・善・美とか三層および三位が一体的にはたらいて生態系をなすようになっている。
それも、それぞれの層や位が均一に分離独立しているのではなく、それぞれが連なってからみあう三層なり三位に微分されるような形態をしている。
「自然には飛躍はない」ことはまえに述べました。
この宇宙およびこの世の自然現象には、ひとつとして飛躍はなく、すべて上中下、大中小、前中後、左中右、長中短、軽中重というように三連関系になっている。
三連のそれぞれが、また三連になっているというぐあいです。
玄米はデンプン質(炭水化物)が人体内で一度に、一気に消化吸収されない構造です。
なぜそうなのか。
それは、もっとも純正良質なデンプン質が最終的な吸収器官の小腸で吸収される必要があるからです。
体調を狂わす不自然な血糖の急激な高低現象や反応をおこさない構成になっている。
白米、砂糖、アルコール、砂糖入ジュース等がからだに悪いのは、血糖を一気に高低させてしまう裸のデンプン・ブドウ糖質(糖質)だからです。
歯によって噛み砕かれた玄米は、唾液をまぶされて消化酵素のはたらきをうけ、消化体制にはいります。
炭水化物は栄養素のうちで最重要成分ゆえ、すべての消化工程をまんべんなく経たのちに吸収される仕組みになっています。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米の栄養は人体の各層各部に適合する成分
三大消化液の処理をうけた玄米は、つぎに吸収される段階にはいります。
とはいっても、健全な人体は、そうやすやすと簡単に、性急に吸収しません。
念には念を入れた処理を行う。
前記の三大消化液処理に加えてさらに、胆汁、十二指腸液、腸液などが加わって、消化管内食物(乳摩)の微細な部分にまで、無駄や失敗をおこさないための綿密な消化吸収作業が配慮されています。
玄米に含まれている栄養成分
玄米の全成分が完全に目的をはたすための作業と合致しているようです。
これにくらべ、いまの栄養学ですすめている一日30種品目以上の食品からの栄養摂取は、各食品と栄養素に生命の関連性がないばかりか消化秩序が配慮されていませんから、それぞれに応じる消化液の種類・濃度・分泌量などが各部処ごとにバラバラに対応させられることになり、それは、混乱と逸脱と疲労の交錯するパニック状態を五臓六腑と神経に食事のたびごとに与え、それらを疲労困憊することになります。
これゆえに、現代栄養学の食事法は、まじめに忠実に守れば守るほど、五臓六腑と神経に負担を強いることになります。
疲れやすい、疲れがぬけない、からだが重い、ひざや腰が重苦しい、眼が疲れ視力がおちた。
肩がこるなどの鈍重肝機能症から肝臓・腎臓病へ、あるいは糖尿病やアレルギー体質へ、さらにガン化症状へと、病状を訴えるひとがあとを断ちません。
現代栄養学の食事法は、目で見る食卓上は、いかにも栄養あるような豪華で優雅でにぎやかですが、目に見えない体内にはいると、それらは一転して、収拾つかないゴミの山の洪水となって、臓器官神経を拷問にかけてギブアップさせ窒息状態にしてしまう。
見た目と実体は大ちがいです。
栄養学という人間の小知識(小賢しい一片の知識)で、人体内の宇宙自然(人体内の神々)を支配しょうとしても、それは無理というものです。
無理どころか叛逆反行為です。
できるだけ自然に、できるだけ天然にかえる、そうしさえすれば体内の神々さまは、わたしに不都合を生じさせない万全の処理と処方を講じてくれる、その意向をもっとも体しているのが「玄米食」です。
玄米の吸収の一例を見てみましょう。
玄米の皮は、人体の皮膚となる成分を多く含んでいる、ということです。
これは、他の食品に関してもいえることです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米には不思議な力がある
玄米は栄養学的にも、生態学的にも、植物学、植物分子学的にも、生理学的にも、医学的にも、化学物理学的にも、経済学的にも、教育学的にも、およそあらゆる角度から検討しても、これほどすぐれた食べもの(食糧)はありません。
玄米に含まれている栄養成分は?効果・効能のほどは?
これを総合して、甲私は、玄米には神力がある、と申し上げざるをえません。
自然に対抗し、自然を征服して人間天国を実現するという思想の下では、このようにスバラシイ食べものは邪魔なのにちがいありません。
しかし人類は、すでにさまざまな実験や試験を行い、たくさんの貴重な犠牲の記念碑や墓碑を築いたのですから、もうめざめねばならない時です。
自然とともに、自然に従順に折り合いの節度をもって、万物と共存共生してゆくべきです。
玄米を正しく知る、お米を正しく知るということは、天然自然のありがたさ尊さを認識する第一歩です。
あなたが、玄米を炊いて、一口(あなたの親指の第一関節分くらいの量)を30回から60回、60回から100回ほど噛み、これをいくどか実行して、「ああ、玄米って、あんがいおいしいんだな」と感じて納得するなら、あなたは玄米の恵みを受けられる資格者です。
最初からこのような感想をもてなくても、炊きぐあいの上達とともに、玄米のおいしさを認知できれば、やはり資格者です。
玄米をおいしくないとか、まずいというひとのほとんどは、実際においしく炊けた玄米ごはんを食べたことのないひとか、先入観的に玄米を嫌悪しているとか、生理的に玄米を受け入れられない生理や体質になっているひとの場合です。
玄米に含まれている栄養成分は?効果・効能のほどは?
いくどか努力しても口に合わないとか、体質に合わないというひとも、たまにはあります。
このようなひとは、無理して食べる必要はありません。
玄米ごはんをおいしいと感じられて、これなら食べられると納得されたひとは、そのまま玄米食をはじめられて、つづけてください。
あなたの血液はどんどん浄化されはじめて、玄米の生命力を授かりはじめます。
健康は日まLに向上しはじめます。
あなたが「玄米って、おいしいな」と感じられ、「ああ、おいしかった、ありがたい」と感謝の気持になる時、玄米を組成していた生命の素粒子が分解されて、あなたのこころとからだに宇宙の生命のヒビキを伝えているのです。
そして、さらにあなたが玄米と一体になるにしたがって、まえに述べた健康の七大条件のどれかが実現されはじめているのを納得されます。
病気だらけだった家庭は、病気のない家庭に、しらずしらずのうちに変わってゆきます。
ひとも家庭も、ほんとうは、病気も病人もないのがあたりまえでなければなりません。
ひとも家庭も、みんな健康なのがあたりまえなのです。
健康でないとか、病気だらけというのは、「食」に根本的なまちがいがあるのです。
玄米は、ひとをも家庭をも、健康をあたりまえにしてくれる。
その力をもっています。
「神力」とは、ごくあたりまえ、ごくふつうという意味の別称であるともいえます。
現代人の味覚、喚覚、触覚などは、人工的な味や感触に慣らされてしまった面もあります。
自然の風味を感知するまでに、多少の時間を要すかもしれません。
努力をしても自然の感覚をとりもどす必要があります。
野生動物や人間の赤ちゃんは、天然自然のものと人為人工のものを瞬時に感知します。
お母さんが、天然自然の食べものを主食にしているか、人為人工の加工食品や化粧品や洗剤を用いているか、ちゃんと識別しています。
現代の大人たちは、科学的知識や社会的観念や宣伝やら流通情報などによって、自然治癒力という内なる神の声も、天然自然の恵みという外なる神の声をも、聴くことも視ることもできないほど本物と偽物を識別する能力を麻痺されています。
病気とは、心身ともに赤子にかえれという、神のお告げです。
人間は大人になるにしたがって、こころもからだも悪くするのは、神が用意してくださった食べもの飲みものから日ごとに遠ざかり、人為人工の食生活に支配されて、それをあたりまえの習慣にする結果です。
こうした悪習性に気づいて、人為人工食主体の食生活を改めて、天然自然が主体の食生活へ軌道修正することは、神に近づこうとする意志表明にはかならず、神が感知しないはずはありません。
玄米ごはんを、おいしいと感じられるのは、神とのヒビキあいができるということです。
白米とか白パンとか化学精製塩などは、人為人工力によって強制的に天然自然の生命力(左回転エネルギー)を剥ぎ奪り、削ぎ離した食品です。
口あたりがよい、食べやすい、見た目がきれいというような表面的な感覚だけで常食するのは、明らかに神をないがしろにした行為です。
生命なきものを自ら求めるのですから、生命乏しき己れになるのは当然です。
玄米や玄麦や自然塩や自然農法産物がよいからといって、これらをただ無闇に食べていさえすればよいというものではありません。
身心に適合する正しい食べ方がたいせつです。
食べるということは、栄養を摂りさえすればよいということではありません。
身も心も、おいしくたのしめて、感謝できて、生きている歓びに満ちあふれるようでありたいものです。
それには、その食べものの生命が、最大限にわが身心にいただける対応を、わが身のほうから食べものにはたらきかける必要があります。
それはどういうことかというと、正しい食べものを自ら選び出し、正しい料理法を自ら習得し、正しい食べ方でいただく。
体質や体調や病状に応じた食べものを選択し、料理し、しっかりいただくということです。
私も玄米を食べはじめの頃は、詳しいことはなにも知らず、分からず、ただ病気を治したい、はやく丈夫になりたい、家族を丈夫に健康にしたいの一念だけでした。
妻が工夫しては、玄米を上手に炊いてくれたおかげで、おいしく食べられ、玄米への感謝のこころをもちつづけることができました。
玄米の神力(生命力)を十分にいただくには、なにはさておき玄米ごはんを上手に炊くことがたいせつです。
玄米ごはんを上手に炊けるかどうか、それは炊くひとの愛情のバロメーターになります。
万物万象への愛情のバロメーターです。
私は、玄米ごはんをおいしくいただきつづけるうちに、いつしか「一食一生」を痛感するようになりました。
一口一口の玄米ごはんが、私の一生です。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米と酵母菌が病気にならない体を作り上げる
「有用微生物群が地球を救う」。
これは比嘉窯氏(琉球大学教授)の言葉です。
比嘉氏は著書『地球を救う大変革』(サンマク出版)の中で、次のように記しています。
「有用微生物が土の中で増殖すると、抗酸化物質のレベルが高くなるためエネルギーの立体的な集約化、すなわち組成の構造となり、土中の空気や水も浄化され、植物が生き生きとしてきます。
また、これら蘇生型微生物の作り出す分泌物のなかには、アミノ酸や有機酸、多糖類、ビタミンなど動植物の栄養になるものがたくさん含まれています」
この文章の太文字にした部分を、「土 → 腸」「植物 → 人体」に置きかえると有用微生群が地球(土・土地)や人体にとって、いかに貴重であるかが身近になります。
玄米を食べていると、しだいに体調は良くなります。
なぜ良くなるか。
その答がこの一文に示されています。
玄米は有用微生物群が育成される食べものです。
人体の中では、微生物は腸内にとくに多く、光岡知足氏(日本獣医畜産大学教授、著書『腸内細菌の話』など)はこれを腸内細菌叢と称しています。
腸内の有用細菌叢が健全であれば、人体は健康というわけです。
玄米は有用微生物に好まれる。
べつの表現をすれば、玄米は有用微生物を育てる絶好の食べものだということは醸造学においてもよく知られています。
ヌカを用いた漬物や肥料などで昔から証明されている。
たとえば、発酵した漬物の糠(ぬか)一グラムには、有用微生物が、兆の単位棲息している。
玄米を食べていると、腸内はもとより人体全体に、有用微生物群が自然と優勢になって蘇生力が湧いてくる。
玄米食は天然自然の理にかなった食べものなのです。
これを、さらに詳しく無双原理(PU)で考察してみましょう。
同じ比嘉氏の『EM(有用微生物群)のすべて』という本には、次の解説があります。
「酵母菌は、グルコース(ぶどう糖)を基質(微生物の食べ物)に解糖系一次代謝でビル頑ビン酸にかえる働きをする。
ビルビン酸は好気性の酢酸菌、微好気性(条件的嫌気性)の乳酸菌、嫌気性の雷菌(腐敗菌の一種)の基質となる。
また二次代謝ではホルモン・ビタミン・核酸などの生理活性物質をつくり、作物の生育を促進します。」(「EMの糠(ぬか)ニズムを検証する」より)
この一文は、玄米が日本人にとって理にかなった食物であることを科学的に示唆します。
日本の気候風土の最大の特徴は「湿気」であることは、ご承知のとおりです。
「湿気」はいちばんの日本的特徴です。
衣食住のすべてにわたって、「湿気」をぬきにした生活様式は考えられない。
水田稲作農業は、わが国の文化の基幹を形成し育成してきましたが、これも「湿気」が生み出した農業であり文化であるといえます。
そして、これの誓なこととして、「醸造文化」があります。
醸造文化は「湿気」と「微生物」が主役です。
酵母菌は、グルコース(ブドウ糖)を分解する一次代謝過程でビルビン酸をつくり出す。
ビルビン酸は陽性、中性、陰性の各性質の微生物の食べものになる。
そして、それらの微生物が、ホルモン、ビタミン、核酸などの生理活性性質を産出する、というのです。
土中で行われることと、ほぼ同様のことを人体でも行います。
なぜなら、人体は小宇宙だからです。
親(大宇宙)の構造と機能の相似体であり相似象です。
ちがう点は、「食」に宇宙および環境が集約されるぶんだけ、人体の消化吸収の構造と機能が繊細で精密な点があることです。
たとえばグルコース(ブドウ糖)の分解(消化)でも、人体においては唾液や胃液や膵液などの過程が加わって、炭水化物 → デンプン → ブドウ糖 → の陰陽度と陰陽の質に応じて微妙微細なちがいとかかわりあいかたが生じ、その陰陽度や質に応じる微生物群が関係しあってきます。
玄米の糠層には、脂肪に結びついた糖質、タンパク質に結びついた糖質、さらに他の成分に結びついた糖質が微妙に含まれています。
がんの食事療法
酵母菌がグルコースを分解してビルビン酸にするといっても、単純同一のビルビン酸が産出されるはずがありません。
千差万別のビルビン酸になる。
白米の胚乳部だけのグルコースと、玄米の糖質に含まれる糖質までも含むグルコースとでは、ビルビン酸の種類も質も、それによって育成される微生物の種類も質も、すべて大きくちがいます。
こうした観点から、玄米を食べるということは有用微生物群を食べ育てることにかわりないことになる。
抗酸化体質と抗酸化機能体になるといえます。
この場合、人体は有用微生物をどこから入手するか、それを育成する基本条件は何か、を理解しておかなくてはなりません。
わが国の「湿気」が産んだ「醸造文化」は、有用微生物を育成し伝承するための文化なのです。
すなわち古式伝統の醸造法による味噌、醤油、漬物、酒などは、腸の内にホルモンやビタミンや核酸や、その他もろもろの生理活性物質を生産する有用微生物のかたまりやエキスにほかならないといえる。
古式伝統の正しい醸造法でつくられた正しい食物や調味料を正しく摂取していれば、人体は腸内に、全人体が必要とする栄養や薬剤を生産する工場を保有しているにひとしいのです。
人体内のこの自然生態系を破壊するのが、ほかならぬ精白精製科学工業技術です。
ホルモンやビタミンや核酸や、カルシウムだタンパク質だミネラルだと、これらは体外の製薬工場や食品工場でつくらなくては摂取できないという考え方や思いこみ、先入観念は大まちがいです。
わが国の明治以降の教育と政治と産業経済文化は、有用微生物を潰滅させる文明であったことがよくわかります。
有用微生物を潰滅させて、人体および国体を破壊し滅亡させる文明化にはかならなかった。
このことを、私たちは謙虚に反省する時に至っています。
玄米正食法では、調味料は古式伝統の醸造法による味噌、醤油、梅酢、酒、みりん、それに自然塩を指定します。
わが国の風土と一体の有用微生物を体内に誘導して、有用腸内細菌叢に育ってもらうためです。
近代科学文明は、たとえば医学においては菌を殺すことを衛生と称して、有用有益菌をも殺してしまう。
有用微生物で発酵し醸造される調味料をカビるとか菌がいるという理由で非衛生、不衛生食品ときめつけ、化学調味液や化学製法による食品を常習させた。
食べものや人体にかぎらず、農業においても同じです。
微生物や虫や鳥、獣、魚など、殺してあたりまえという思想です。
これはまったくのまちがいです。
いかなる植物、いかなる動物、いかなる鉱物といえども、その生命の尊さと価値は人間と同等です。
ひとつとして価値なき無用なものはない。
この文中、私は、有用微生物、有用腸内細菌と「有用」という表現を用いています。
じつは、これも宇宙的視点ではまちがいなのです。
人間にとって「有用」と「無用」の識別をしているだけで、有用微生物が存在するのは無用微生物があってのおかげであることを無視してはなりません。
陰あれば陽あり、陽あれば陰ありです。
「有用」「無用」という表現も正しいとはいえません。
糠(ぬか)を保有するわが国の玄米は、わが国の微生物が好んで育つ条件を十分にそなえた風土そのものであるといえましょう。
玄米ごはんは、よく噛まれて胃を通過して腸に達すると、人体に有用有効に活動してくれる微生物の育ち、よくはたらく風土となる、ここに玄米食の正当性と合理性のあることをしっかり知っておく必要があります。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
玄米ごはんとみそ汁
玄米ごはんの炊き方
玄米ごはんの炊き方は、いろいろあります。
圧力かけないで炊く方法と、圧力をかけて炊く方法と、大きく分けて二つの方法があります。
治療を目的に、現在よりも健康状態を陽性体質に向上させたいひとは、圧力釜か圧力鍋を使用したほうがよいでしょう。
圧力をかけると、ごはん自体が陽性の性質になります。
したがって陰性タイプの体質のひとに適します。
これに対して、生まれつき陽性タイプの体質者で、現状の健康維持のために玄米食をしてみようというひとは、だれにも失敗せずにおいしく炊ける方法をひとつだけ紹介します。
おいしいといっても、大きな釜で一度に大量に炊く場合と、小さな器具で少量炊くのとでは、おいしさにちがいがあるのはまぬがれません。
ここで述べる方法は、これから玄米食をはじめるひとが、失敗せずにおいしく炊く方法です。
一応、2〜3人分用とします。
(使用する器具および食料)
○圧力鍋か圧力釜(ガス飲用、八合炊)
○カムカム陶製鍋3800型
○無農薬玄米 三カップ
○自然塩 小サジ三分の一
〇浄水器を通した良質な水
カムカム鍋に三カップ(玄米と同量)
圧力鍋に四・五〜五カップ
(炊き方)
�@玄米カップ三を、サッと洗い、ざるに上げて水を切る。
�Aカムカム鍋に玄米を入れ、三カップの水を加える。
�B自然塩を小サジ三分の一ほど入れる。
�C圧力鍋に四・五〜五カップの水を入れ、その中にカムカム鍋をセットして、強火にかける。
�D勢いよく沸騰したら二〜三分待って、弱火にする。
�E四五〜五〇分で火をとめ、五〜一〇分蒸らす。
(解説)
玄米が炊ける電気炊飯器をすでに使用されているひとは、それで炊いても結構です。
内鍋にカムカム陶製鍋を使用する理由は、二重構造となってこげつかず、陶器の遠赤外線効果で芯までふっくら炊きあがり、失敗がありません。
また、ごはんが金属に触れないため、アルミやステンレスなど金属イオンの溶け出す心配もありません。
かたいごはんを好みのひとは、カムカム鍋に入れる水をすこし減らします。
やわらかめの軽いごはんを好むひとは、圧力鍋のオモリをしないで、水を2〜3割ふやし、沸騰後50〜60分弱火で炊きます。
水加減、火加減、オモリ、カムカム鍋のフタの有無、時間などは、適宜な工夫と体験で、好みの方法を習得しましょう。
炊き上ったごはんは、おヒツに移し、濡れふきんで被ってフタをして保管します。
みそ汁
味噌は古式伝統醸造法により、味噌として十分に醸成されたものでなくてはなりません。
主食のお米(玄米)は、まえに述べたとおり、天地人が共同で生み出した最高傑作の食べものです。
味噌は、天地がかかわっていることはいうまでもありませんが、微生物と人間が共同作業で生産する最高傑作の食品です。
地球上の生物が生きていられるのは、微生物のおかげでもあることを見落としてはなりません。
発酵食品というと、日本人はチーズやヨーグルトなどをありがたがります。
足もとにある昔ながらの味噌、醤油、酒、漬物、納豆などより、舶来品をありがたがる。
チーズ、ヨーグルトといえば、神秘的な栄養と、長命長寿の滋養と薬効成分の固まりであるかのように信じこんでいます。
チーズやヨーグルトは、欧米人や牧畜民には有効でも、日本人には気候風土的に、生態学的にも生理学的にも、本来、あまり適さないものです。
人間はバカなもので、身近なものより、遠くのものを必要以上にありがたがってしまう。
しかし飲食に関しては、これは重大なまちがいです。
こと飲食物は、土着生産物を愛用するのが正しく、遠来のものほど健康を害します。
どうしても外国産のものを飲み食いしたかったなら、現地へ出張して、現地の気候風土の下で賞味するのが正しい食べ方であり、味わい方です。
味噌は、チーズやヨーグルトよりも、はるかに根源的な生命力に富んでいます。
根源的な生命力とは、チーズやヨーグルト類が動物乳を原料にしているのに対して、味噌は植物を原料にしている。
人間は植物によって生かされるのが宇宙の法則です。
調味料とて、動物を原料とするのは、原則として、宇宙法則違反でして、その害はかならず蒙ります。
チェルノブイリ原発事故や、広島・長崎原爆による放射能被災に対して、味噌がたいへん注目されました。
味噌の成分に、放射能や放射線障害を中和したり排除する効能があるからです。
ただし、有用微生物群が十分にほどよく作用した成熟した味噌でなければなりません。
化学的合成味噌ではダメです。
遺伝子でも細胞でも組織でも、損傷したり欠損したり疾病部処は、電気障害を生じています。
有用微生物や酵素は、その電気障害を感知して修復作業を行う、そうした本能を天然自然を素材にした原初的食物は保有している。
人体は、極端な表現かもしれませんが、光の粒子(電気・元素)の固まりです。
組織も細胞も遺伝子も、光の粒子の固まりであるのはいうまでもありません。
食物も、この世のものすべて、光の子です。
光の粒子の障害は、原子・分子レベルなら微生物や酵素が修復する能力を保有している。
人間が遺伝子工学だのバイオテクノロジーなどと意気ごまなくても、その環境を整えさえすれば、微生物や酵素が神の設計図にしたがって無理のない作業をするのです。
ですから私たち人間は、できるだけ自然に随順した、自然とともの生活をするのが賢くもあり正しいのです。
味噌は生体環境を整える基礎食晶のひとつです。
この原料は、米・大豆・麦その他の穀物、所によってはイモやソバを使用する場合もあります。
それに塩と椛と微生物です。
牛乳や羊乳など動物性を原料とするチーズ、ヨーグルトとは、原材料および微生物の生命力の次元がちがいます。
味噌に関しては以上のほかに、栄養学的なこととして、消化吸収されやすい良質なアミノ酸(タンパク質の素)が豊富なことは、よく知られています。
良質タンパク質の宝庫です。
味噌そのものの優秀性や長所に関しては、まだたくさんあり、ここに述べきれません。
くわしいことは、専門の研究書や説明書にまかせることにして、ここではみそ汁自体の優秀性についてふれておきます。
日本人は、チーズやヨーグルトを崇拝するように、「コンソメ」だとか「ポタージュ」だとか「スープ」と名のついた外国料理の汁物を、みそ汁以上にありがたがります。
それらを珍味として賞味するのは、けっしてわるいことではありませんが、「みそ汁なんて野暮ったいもの」とか「みそ汁にはたいした栄養はない」とする蔑視・軽視あるいは「塩分とりすぎになる」という医学的見解をまことしやかに流布させたのは、考ぇちがいもはなはだしいまちがいです。
玄米正食ではみそ汁に、こんぶ、わかめを毎日使用します。
海草に含まれるアルギン酸は、食塩のナトリウムと結合して過剰塩分を人体から排泄してくれるからです。
伝統食にはこうした知恵が体験的に折り込まれているのに、これらを遠ざけさせる風潮は、インスタント食品の普及に拍車をかけ、化学精製塩や化学食品添加物類をとりすぎにする食生活を促進させてしまいました。
ホンモノの外国料理のスープは、原料の吟味から長時間の煮込みを経て仕上げるまで、調理人の精魂が注入されます。
それゆえに、おいしさもありがたさも、崇拝する気持も憧慢心もともなって出てくる。
みそ汁は、それほど大仕掛けを要さずとも、スープづくりに精魂こめる入念さでつくれば、はるかにからだに適応する貴重なみそ汁ができます。
食物のインスタント食品化は、想像以上に思いがけない害悪を人間にもたらしています。
それはともかくとして、この世に、主食のお米(玄米)以外の食べものとして、みそ汁ほどありがたい汁物(スープ)はありません。
日本人は、みそ汁の見直しをしなくてはいけません。
欧米では、ミソスープといって、自分たちのスープよりも高い評価を与え貴重な薬用食的な扱いをしています。
みそ汁の特徴は、煮た野菜や海草を味噌で調味する、この時に味噌を短時間煮る、ここに重大な意義があります。
味噌を煮すぎても、煮方が足りなくてもいけない。
味噌汁の風味はこれによって定まりますが、風味以上に重大なことが秘められています。
味噌は煮られることによって、熱に弱いある種の菌や酵素は淘汰されます。
熟に耐えた微生物と酵素は、36.5度という体温環境で、胃腸内の食物を常温、核分裂反応や核融合反応をさせ、人体用の元素や熱源に原子転換作業を行ってくれる勇士や触媒です。
この点が、みそ汁の最重要なところです。
人体にあまり役立たない菌や酵素は、熱で淘汰されてしまう。
これは、火の玉の地球に、現存生物の先祖が棲息するようになった原理と相似象です。
熱には耐える有用微生物と酵素が選択される。
熱に耐え抜いた有用微生物と酵素が、腸に地球生態系を複製する。
腸が常温原子転換装置の役を果たしているのは、微生物や酵素の働きを得て実現しているのです。
ヒトにはヒトの体温としての適温があります。
体温によって微生物と酵素の種類や働き方がちがってきます。
同様に、みそ汁をつくる時の味噌の煮方によっても、微生物と酵素に微妙なちがいが生じてきます。
みそ汁ひとつの作り方によって、その人やその家庭の健康や運命がちがってくる。
良い味噌と良くない味噌のちがいは、単においしい、まずいのちがいではありません。
腸へいってから雲泥の差となります。
単に口あたりがよいとか、値段が安いとか、香りがよいというような表面的なことで判断してはなりません。
健康な有用微生物と酵素類が、しっかり醸成熟成された味噌が良い味噌です。
これらは国産の良質の原料で、質のよい自然塩と水と、健康な微生物群が棲息する環境で、わが国伝統の醸造法によってつくられます。
このすぐれた味噌を、質もこころをも十二分に発揮させるみそ汁に仕立てたいものです。
料理の腕を磨く重要性は、こういう点にあるわけです。
みそ汁は栄養と健胃整腸剤の宝庫です。
ごはんからは得られな微生物や酵素や栄養を補給します。
たくさん摂る必要はありません。
通常は、一日一杯で十分ですが、労働量や運動量に応じて、二杯程度摂ってもわるくはありません。
血液・体液を浄化して活性化してくれる、日本人に最適の副食です。
アレコレと30品目以上の栄養食品に頭を悩ますヒマがあったら、最良の天然醸造味噌を使用して、最高においしいみそ汁づくりに研賛するほうが、どんなに健全かしれません。
一時期、大根・大根葉・ごぼう・にんじん・しいたけを配剤した野菜スープがたいへん注目され、流行しました。
これはこれで、体質と体調の識別をまちがえずに用いれば、たいへん効能のある貴重なスープであることはたしかです。
みそ汁は、それよりもさらに、万人向きに何層倍も生命と栄養の源泉であることを知っておいてほしいものです。
そして自信をもって、愛用してほしいものです。
飲み物
飲み物は三年番茶かほうじ茶です。
これ以外の飲み物としては、良質な天然水と認められている飲料用水か、よく浄化された水道水。
それに尿療法を行っているひとはオシッコ。
これなら用いてけっこうです。
飲み物は、血液・体液の濃度や質を左右します。
血液・体液が健康であるためには、健全な質と濃度でなければならない。
飲み物が多すぎれば、血液・体液は薄められて力が乏しく弱くなります。
飲み物がすくなすぎれば、血液・体液とも濃くなりすぎて代謝活動がスムーズにゆかなくなります。
飲み物の適正量は、一日24時間内の小便回数で調節します。
男性は一日に3〜4回。
女性は一日に2〜3回。
これを目安に飲食量を加滅します。
ちなみに大便は、男女とも一日に1〜2回、これ以上あってもかまいません。
とはいえ、大便が、毎日三回も四回も長期間つづくという場合は、飲食量や腸のぐあいを検査する必要はあります。
玄米食の試食中は、原則として三年番茶か、ほうじ番茶だけで十分です。
その他の注意事項
医薬品について
玄米食は、天然自然の生命力と自然治癒力に依存する食事法です。
天然自然の生命力と治癒力の螺旋(渦巻、スパイラル)は、左回転優性で右回転劣性です。
これに対して人為人工力は、右回転優性で左回転劣性です。
紙面の都合で、ここでは理由を十分には説明しませんが、ひとの生命(寿命)は左回転生命力(エネルギー)の保存量に比例します。
日常の生活様式や飲食物が人為人工力や加工食品類に依存する度合が多くて高ければ、高いほど、天然の左回転生命力は中和され、右螺旋力が優位になり、天然自然の生命力と自然治癒力の保存量は減少し、生命力(寿命)は乏しくなります。
これゆえ、度を越す人工薬品依存は生命力・治癒力を減退させ、減少させ、弱める作用をします。
食事療法で病気を治し、健康をとりもどすのなら、化学薬品に頼らないのが賢明です。
化学製薬技術や投薬方法や、医薬品そのものが日進月歩の進歩を遂げているというのに、病気も病人もいっこうに根本的に減少しない。
これは、化学薬品や人為人工技術力が天然自然の生命力の螺施に相反している宿命をどうすることもできないからです。
人工薬品が優秀になればなるほど、そして使用されればされるほど、人間生来の生命力や自然治癒力は損われる原理原則と宇宙法則になっています。
この矛盾(パラドックス)は人力ではどうもできません。
これゆえ、精細精密に製造される化学薬品よりもプラシーボ(偽薬)のほうが良心的で、しかも害にならないといわれるゆえん(理由)もあるのです。
草根木皮の漢方薬のほうが害にならない理由も、ここにあります。
いずれにせよ食事療法および玄米正食健康法は、日常の飲食物がすべて貴重な医薬品そのものです。
他の医薬品に依存する必要はないわけで、玄米の試食期間中は原則として植物以外の化学薬品類を中止するのが正しい判断です。
労働および運動について
からだは、日中は、できるだけ動かすのがよく、夜とともに休息休養するのが正しいことです。
自律神経失調症や、精神異常、情緒不安などの症状を治すのには、太陽とともに起床して、活動し、日没とともに休息休眠の生活をするのが基本です。
からだをよく動かすと、心臓の負担を軽くして血行は活発になり、全身の新陳代謝はさかんになります。
自分の体力や体調に応じた範囲で、こまめによく動くことです。
こと改めてジョギングやマラソンをするとか、水泳するとか、運動クラブに通うなどという必要はありません。
家事でも庭仕事、畑作業でもお手伝いでも、なんでもよく、おっくうがらずにこまめに、よく動くことです。
そうすれば当然の結果として、夜はよく眠れることになります。
くよくよしない、取り越し苦労しない
こころもちひとつで、血液・体液の状態および体調、対人関係、運・不運が変わることはよく知られています。
すべてに、できるだけ明るく陽気に努力して、なりゆきはすべて神におまかせしてしまう。
神しだいです。
神におまかせしているのに、未だ自分の願いや期待どうりにならないというのは、末だ天地の理に則した生活になりきれていない点があります。
神のいうとうりの生活ができていないのと、神におまかせしきれていないこころがあるのです。
心身は、明るくなる性質の飲食物を摂れば陽性(陽気の性質)になり、暗くなる性質の飲食物を摂りつけていれば陰性(陰気の性質)になります。
両親や先祖代々の飲食の好み(食伝)の影響もありますが、日常の飲食物によって陽気人間にも陰気人間にもなってしまう、食べものにはそれほど大きな力があります。
自分をも、家族をも、食べものは、食べものの性質どうりに変える力があります。
それゆえに日々の食事はたいせつです。
正食料理の基本原則を付記しておきます。
正食料理の基本原則
一、食材は穀物を中心とする植物性の食物と食品で心身を養う。
二、その土地で、その季節にとれる伝統的な素材を用意する。
三、皮むかず、ひげ根を捨てず、ゆでこぼしやアク抜きをしない、一物全体の活用。
四、人工の薬品を絶対に使わない。農薬や化学肥料を使った野菜や、カルキ入りの水 道水は使わない。砂糖、化学調味料は使わない。調味料は、自然塩と古式伝統醸造法によってつくられたもの、その方法でつくられた漬物などを用いる。
五、陽陰の原理にしたがって調和をはかる。
料理とは、食材をかぎりなく健全な血液に近づける作業です。
この場合の食材とは、植物性のものです。
植物をできるだけ人間という動物化にする作業、これが料理の最大の任務です。
こうすれば動物性食品を摂る必要はなくなります。
動物性食品を摂るということは、手抜き作業であり、手抜き人生なのです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
牧畜民・漁猟民の食生活の知恵
世界の牧畜民や漁猟民には、それぞれにはかりしれない食生活の知恵がはりめぐらされています。
農耕を営めない気候風土では、牧畜や漁猟にたよらざるをえません。
先祖代々にわたる牧畜や漁猟生活は、人体生理をも独自の消化液や酵素や、腸内細菌叢やホルモンやビタミンなどの体内産生力や能力を、自然の気候風土にみあったものにつくりあげているはずです。
そうならぬかぎり、民族子孫の維持は果たせないはずです。
たとえば、彼らの料理法は、牛でも豚でも羊でも鶏でも魚でも、一物全体をすべて活用します。
風土に適応する範囲の動物食の一物全体食です。
べつの表現をすれば、身上不二の一物全体食です。
こうすることによって、宇宙法則違反を最小限におしとどめています。
文明の侵蝕とともにそれら良き伝統も崩されつつあるようですが、いまの日本人や先進文明国人のように、食べやすくて美味なる一部分だけを食欲にまかせて食べるのとは、大いにちがいます。
もしも文明国人と称する国民が、日本人も含めてですが、将来にわたって肉食を希望するのなら、祖先伝来の牧畜や漁猟の食生活を行ってきている民族の知恵の表裏を正しく学び直す必要がありましょう。
学び直したからとて、気候風土のちがいはいかんともしがたいことで、異風土においては相応の障害が生じることは覚悟せねばなりません。
しかし現在のような、まったく規律も秩序も欠いた雑食無秩序生活よりは、いくらかまともな肉食生活になるかもしれません。
それにしても日本の風土は、肉食を主体とする風土ではありません。
日本の風土は、水田稲作農業を基本とする風土であり、牧畜民、漁猟民それぞれにすぐれた食生活の知恵があるのと同じに、わが国には立派な稲作農業文化とその知恵が伝承されています。
お米を主食にして、その他の穀物と、野菜や山菜や海草や大豆小豆やごまなどを副食に、地域によっては少々の魚をごちそうにして副える、これが日本における日本人の生理に適合する食生活です。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
植物は動物と人間の親
「植物と人間(動物)の関係」こそ、いま私たちがもっとも正しく理解しておかなくてはならない最重要事項です。
この関係をあいまいにしてきたために、現代文明の破綻のみならず人類の破滅と滅亡になりかねない現況になってしまいました。
「植物は動物と人間の親である」を人類の常識にする、ここから新しい世界と時代ははじまります。
この生命観・世界観・宇宙観がきちんと教育されれば、身近なこととして草花や樹木や林や森など、大きくは熱帯樹林や森林などの伐採や破壊を、いまのように罪意識もなく安易に安直には行えないはずです。
私たちの先祖たち、古代の人たちは、木や林や森には神々が住まうという意識と認識によって、一木一草を敬い大事にしていた。
大腸がんの発見まで
彼等はすぐれた直観によって、植物と人間の親子関係を知っていたのです。
現代人のおよびもつかない科学的なこころをももっていたのです。
現代人は、己れの科学技術力を人類史上最高のものとうぬぼれています。
しかるに、古代人にくらべて、いかに非科学的こころの人種になりさがってしまったか明白ではありませんか。
昔の人々、私たちの先祖たちは、神および自然を畏敬するあまり、現代人のごとき自然破壊や植物大伐採などの無謀な行為はけっして行っていません。
行う場合は、礼儀をつくしている。
親を敬う以上のこころで尊んでいた。
先祖を第一に崇敬していたのです。
生命のふるさと(根元)と、生命の秩序を認識できていたのです。
真理に対する正しい教育の欠陥が、現代の危機を産み出しているのが明らかです。
「地球と植物と動物と人間の関係はどうなっているか」、この真理を正しくしっかり学びえているかどうか、これだけによっても人類の運命はちがってきます。
人間は土を食べては生きられない。
植物が私たちにかわって土を食べてくれて、土の生命を私たち動物の生命へと変換して供給してくれる。
土は土で、天の生命を引き継いでいるのです。
天から地の土へ、土から植物へと生命は流れ伝えられ、私たちは植物のおかげて地球上での生存を可能とさせられている。
このように植物は、動物と人間にとって大切な母であり、育ての親です。
ですから私たちは、植物に正しく養われ、正しく育てられる「礼儀」を欠いてはならないのです。
わが国の稲作農業には、さまざまな祭りや儀式がこめられています。
ご先祖は、植物と動物、植物と人間、植物と生命、食物と生命、食物と人間の関係をじつに精細厳格厳粛に認識していたことがうかがえます。
しかるに、現代人は何たることか。
現代科学はいったい何のためだったのか、厳に反省せねばなりません。
「植物のいのちを正しくいただく」礼儀作法を、現代人は学び直す必要があります。
私はこの本のはじめに、食い改めの重要さを述べました。
しかし、もっと根本的な基本的な常識として、「生命の秩序」と「宇宙の秩序」のしっかりした学習と理解が必要です。
この基礎教育と学習ぬきでは、それから先きと、それから上の文化や文明は砂上の楼閣にすぎないものになってしまいます。
この基礎教育を欠くために、動物が動物を食うことや、人間が動物を食物とするのを正当とする学問や論がまかり通る社会となり、人間の道(倫理)を踏みちがえることを平気にさせるのです。
それにしても肉食動物が存在するのはなぜか、肉食をする人類が存在する事実はなぜかと反論や質問があります。
なぜ肉食動物や肉食をする民族が誕生したのでしょう。
生物史は、動物の進化は植物の進化に随順していることを物語っています。
植物の種の変化に随順して、動物の種も形態も生態も変化してきている。
植物が高度な進化をとげるのにつれて、動物も高度化になっている。
禾本科の植物が稲など優秀な種子を生産してくれたおかけで、穀物を食べる人類は万物の霊長といわれるまでになった。
人類が、ひとり他の動物とちがって大脳を発達し得たのは、穀物と火の結果であることはすでに広く知られているところです。
人類が人類として進化し得たのは、基本的には人類の大多数が植物食だったからです。
肉食はごく一部にすぎなかった。
たとえば極寒地帯や農耕不可能な地帯での居住民です。
これらの地帯は、寒さという極陰性に対して、高エネルギーの肉(陽性食)を摂らざるをえない環境です。
万物は宇宙法則の「陰は陽を、陽は陰を相牽引する」、あるいは「陰と陽は互いに引き合い、補いあう」の関係で成り立っており、「陽と陽、陰と陰は相反発する」の原理で、離反や争いとなる。
動物は植物に対して陽性であり、植物は動物に対して陰性です。
これゆえに動物および人間は陰性の植物を食物とするのが宇宙法則にかなっているのです。
動物(陽性)が動物(陽性)を食うのは、宇宙法則違反です。
これが違反行為だということを人間や動物はどのように認識しているのか、次に観察してみましょう。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
旬に合わせた食生活が基本
日本には春夏秋冬の四季があります。
四季のある国や土地は外国にもあります。
しかし、同じ四季と称しても、四季の内容がちがう。
質がちがう。
日本の四季は、まことに内容ゆたかで、天地の生命エネルギーが多彩に満ちています。
地球上でいちばん精巧な変化に富んだ、それでいて調和に恵まれた四季といえましょう。
この四季を、日々の生活に十分に活用して生きるのと、この恵みを拒否し破壊して生きるのとでは、まったくちがう生き方と人生になるのは明らかです。
たとえば、暑い夏に、日本ではキュウリやナス、トマト、スイカ、トウモロコシなどができます。
これらはからだを冷やす「陰」の性質に富む野菜類です。
夏にはからだを涼しくする産物を日本の風土は恵んでくれている。
これらを上手に摂って、適度に暑気払いしなさいというわけです。
日本よりもっと暑い熱帯では、これらの野菜類よりももっとからだを冷やすはたらきをするバナナとかマンゴーとか、野菜類よりはるかに陰性力の強い果実類が産生され、自然の暑気と人体温のバランスを調整する天地のはからいがなされています。
このように気候風土とその季節の産物と人体の生理は、天然自然のはからいによって、うまく調和がとれるように調節されています。
ところが現代の文化生活と称するものは、これを破壊する生活法を科学的と考えて得意になっている。
たとえば、冬に暖房した部屋で、夏の食物を食べ、冷えたビールやコーラを飲み、熱帯産の果物や冷菓を飲食するのを文化人と思いこんでいる。
人体生理にとっては、自然を無視したとんだ野蛮な行為です。
冬にこのような飲食をしたのでは、胃腸はいうまでもなく、肝臓、腎臓、心臓、肺や膀胱などは冷やされすぎて、冷え性、寝小便、流産や不妊症、風邪や気管支炎や暗息やシモヤケ、これらをおこしやすい体質と体調にしてしまいます。
カレー料理なども同じです。
四季には四季の、その土地ごとに最適の産物がある。
その季節の、その土地のその産物のことを「旬のもの」と称することはみなさんすでにご存知のことです。
旬のものを食べていれば、からだと気候風土は調和しあって、無理なく健全な生理活動が行える人体のシクミになっています。
ただ単に体温の調節や調整に適しているだけではありません。
旬のものは、目や口や舌先においしいばかりではなく、おなかへ入ってから腸内細菌類の活動にも適しているのです。
おいしいお酒や味噌や醤油や漬物には酵母菌の快適なはたらきが欠かせないのと同じように、腸内細菌類も季節ごとに対応する働き手があって、季節ごとに役者がかわり、はたらきぐあいもちがうのです。
旬のものでないと、人体も腸内細菌類も余分のストレスをこおむった。
生じさせたりすることになります。
食物には、大きく分けてからだを温める作用をする性質のものと、冷やすはたらきをする性質のものとがあります。
その季節の日光や空気・水・土が植物となり、この植物が食物となるのですから、気候風土が食物の性質になるのは至極当然です。
食物は、田畑で採れるもののほかに、野山や森や林や、川や沼や海で採れるものなど、いろいろあります。
それらはみな、季節の特徴を背負っています。
季節に対応して快適な生存を植物それぞれ自体も求めるわけですから、季節に順応する性の成分と、季節に対抗する性の成分と、陰陽双方の怪の成分をそれぞれにほどよく織りまぜて怪質としています。
季節の気を、陰陽の形に織りこんで、内包しているわけです。
それゆえに「旬」のものとして貴いのです。
四季は、夏には暑気を払うようなものを、冬にはからだを温めるような、そうした「陰」と「陽」の食物がほどよく生産される風土の自然生態系を組みあげています。
こうした自然生態系に順応し随順し、自然の摂理にしたがって生活しょうというのがエコロジカルライフとか、マクロビオティック生活法とか、自然塾とか自然学校と称する自然生活法追求のグループ活動です。
しかし人類の大勢は、四季にかぎらず季節そのものを遠ざける生活のたゆまざる追求です。
自然や季節を征服するのを文化だ文明だと称しています。
科学は自然を征服するためにのみ存在するがごとき状勢です。
最近は、もうすっかり、食卓から四季感はなくなってしまいました。
季節など問題ではなくなってしまった。
テレビのコマーシャル食品や、コンビニストアやスーパーの安売食品が食卓の主人公です。
もっとも、食卓さえ不要になりつつあるようです。
季節を追放した住家と、季節を追放した食卓が常識的な家庭や常識人間で、冷暖房を備えていない家や、旬の食物にこだわる人間は異常人間とみなされるありさまです。
いまや日本人は、一年中快適な温室のような住宅に住み、いつでも好きなものを好きなだけ食べられる冷蔵庫と食卓をもち、美味飽食の楽園の住人です。
しかし、ああうまかった、おいしかったわ、結構なごちそうだったわねと満足するのは、舌先から咽喉にいたる10センチ足らずの距離と、それらが口中に滞在する数分間の感覚にすぎません。
それ以外の時間と人体は、飲食物のほとんどはストレス物質と化し拷問の道具となって、五臓六腑と神経は書に退いたてられ、処置におおわらわの華す。
旬を無視する食生活は、想像以上に大きなストレスと負担をからだに与え、体調を狂わせて病気を促進する大きな原因となるものです。
四季の季節感のない食卓は、また、子どもの能力の開発を疎外してしまう。
四季に反応し作動して発達する神経を育てなくしてしまうのですから、神経が鈍感になるのはあたりまえです。
腸内細菌類も鈍感となり、不活発になります。
どの季節に、どのような食物が、どういうところで、どのように生産されて、お母さんはそれらを、どこで、どのようにして求めてきて、どのように料理し、食卓に盛りつけてくれたか、あるいはお弁当をこしらえてくれたかというような生活学習をするチャンスも必要もなければ、子どもにかぎらず大人でさえも知らず知らずのうちにバカになるのは必然です。
語呂合わせ的な表現とうけとられるかもしれませんが、食卓に四季が無いのは自然に関する知識や知恵を学べなくなり、情緒や感情に乏しい無機(無季)質的な人間づくりの生活になりかねません。
「旬」の重要さを認識するまえに、もっと基本的なことを述べておかなくてはなりません。
四季を無視し、追放する生活は、季節や天候や気温に反応してはたらく神経を鈍感にすることはさきほど述べました。
最近、自律神経失調症と診断される病人が多い。
自律神経の失調や変調に関して述べておきます。
それは、「朝と夜」「日の出と日の入り」の自然のリズムと神経の関係です。
人体の生理は、朝(日の出)になると目が醒めて起きて活動し、夜(日の入り)になると目は閉じ睡眠する仕組みになっています。
朝、太陽の光に、自律神経のうちの交感神経が感応して目蓋が聞かされる。
交感神経はこの場合、開いたり広げるはたらきをします。
夜になって光が失せて暗くなると、こんどは副交感神経が作動して、目蓋を閉じさせる。
副交感神経は閉じたり縮めたりする機能をつかさどっています。
交感神経と副交感神経は、開く讐る嘉る縮める、というように陰と陽という相反するハタラキをしながら互いの毒活動を補い扶けあっています。
ですから自律神経は、朝になれば目を開かせ、夜になれば閉じさせるシクミになっています。
これを一晩中起きていて、テレビを見つづけたり、勉強だ、仕事だといって、昼と夜をとりちがえた生活をしていると、自律神経は自然の生理リズムとは逆の労働を強制させられることになります。
こうした不自然な、自然無視の生活がつづけられれば、自律神経はやがて狂って不調になり、失謝せざるをえません。
自律神経失調症を治すには、名医にかかり精神安定剤などを服用するまえに、自然とともにの生活リズムを回復するのが先決です。
人体の自然の正常な生理リズムを狂わせる生活をそのままにしておいて、小手先の治療にあくせくしても、根本的な治癒は不可能です。
1日には1日の、自然と生体の緊密な生活リズム・生命リズムがあり、これを度外視しては健康生活は不可能です。
「旬を食べる」の生活も、これとまったく同じです。
「旬を食べる」生活は、季節の自然の生命リズムと生気(生エネルギー)をいただく行為です。
明治以降の科学的ということですすめられてきた現代文明生活は、本当に良かったのか正しかったのか、すべてが悪かったわけではありませんが、よく反省し検討せねばならない時です。
大腸がんの抗癌剤治療
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
地球環境を破壊する根本原因
宇宙を成り立たせている宇宙法則と、宇宙に生物を存在させている生命秩序の原理によれば、ひとを含めて動物は植物性食物を食べて生きるのが基本です。
肉体構造や生理機能のシクミも、基本は植物性で生きる形態と形式になっている。
なぜ、このようなシクミになっているか、なぜ植物性食物が基本の食物であって、動物性食(肉食)は好ましくないか。
これを理解することは、健康と平和を達成する基本理念として、たいへん重要です。
石や土や砂を、私たちは「鉱物」と称しています。
鉱物は元素のかたまりです。
地球は元素のかたまりです。
同じように、天空に浮かんで見える太陽や月や星も、それぞれみな元素のかたまりです。
これらすべてを包んでうかべ運行させている宇宙空間は太陽や星や地球や月を生み出したと同時に成り立たせている。
これゆえ、元素の親にほかなりません。
いまの理科や物理の一般的な常識では、鉱物を生物とみなしてはいません。
植物と動物は生命活動をしているから生物です。
鉱物は生命活動をしているようには見うけられない。
それゆえ非生物であるという区分けです。
一見そのように考えられはしますが、鉱物がまるきり非生物であるとは思えないフシはたくさんあります。
岩にも砂にも、月にも星にも、生命はあって生命活動をしていると見受けられることはたくさんあります。
まして太陽は生命の根源のひとつです。
身近なことで不思議なのは、鉱物から植物が生まれたことです。
地球から生物が誕生したことです。
もちろん、鉱物のみから植物が生まれたわけではなく、日光や風(空気)や水などの作用を受けてのことです。
それにしても生命が無いように見受ける岩石や土から植物が生まれ育つのには、鉱物にも生命があるからではないでしょうか。
いずれにしても、地球という鉱物体から植物が誕生したのは事実です。
植物は、土と水と風と日光などによって生まれ、土や水を棲み家とし、極端な表現かもしれませんが土と水を食べて生きている。
水はともかくとして、土を食べる能力をもっています。
これに対して、人間をも含めて動物はどうか。
ほとんどの動物は、土を食べる能力はありません。
動物は土を直接に食物とすることはできない。
動物と植物の大きなちがいのひとつは、土を食物とするか、しないかということにもあります。
土を食べる能力をさずかった植物と、土を食べる能力をさずからなかった動物を比較対照してみて、地球はどちらを先に産んだかが考察できます。
地球は植物を先に産んだのです。
地球(土)から植物が誕生して、そののちに動物が生まれた。
動物は土を食べる生物としてではなく、土を食べられないかわりに植物を食べる本能と機能をさずけられて、地球に誕生したのです。
植物と動物のこのちがいを考察して、太陽や星や地球や月ができて太陽系宇宙が成立ののち、地球という鉱物体に最初に誕生した生命体は植物だったと判断できます。
鉱物を食べて生きられる生物でなくては、地上に誕生させられても、生き永らえることはできません。
これらのことから、地球は植物の母であり、植物が動物の母であるという関係が明白です。
人類はこれまで、植物を同胞か後輩、あるいは召使人的な認識で扱ってきたのではないでしょうか。
原初の生命発生の認識においても、植物とも動物ともつかない無性単細胞生物から分裂した細胞が、一方は植物に、一方は動物にと進化して今日に至っているというふうな認識です。
植物を対等かそれ以下の存在とみなす自己本位性が、この時点からすでに意識されていたのかしれません。
学問的にもこの学説をとっているものが多い。
しかし、いまやこれは正しい科学的な認識ではありません。
己れを優位者に置きたい感情的認識にすぎず、正しい科学的態度とはいえません。
当初のまちがった認識は、そのまま今日まで継続し、さまざまな矛盾を現在にまでもたらしています。
そのいくつかを考察してみましょう。
人類は植物に対しては、いま述べたとおり、自分を優位者・優者と位置づけました。
同類の動物に対しても、己れを万物の霊長であるという認識の位置づけをしました。
そしてさらに同胞たる人類自体に対しては、弱肉強食主義をそのままに正当化して、生存競争は武力および経済力(金銭財力)の優劣によって決まるとして現代に至っています。
武力と経済的繁栄が己れの生存の安泰をもたらすと考えました。
そしてこのためになら、地球をも植物をも「資源」と位置づけ、優勝劣敗、早い者勝ちの思想で、乱獲伐採をほしいままに行うようになり、それらをどのように利用しようと、利用する権利は優位者・優者・強者にありの考えに立った行為行動です。
この結果、いまや人類自身の生存までが脅かされる地球環境と生態系になってしまった。
そしてはじめて、己れの非にいくらか気づきはじめた、このような現状です。
しかし、まことの反省に至っているわけではありません。
なぜそういえるか。
それは現代人の、地球や植物や宇宙に対する態度や言葉に表わされています。
たとえば「地球環境を守らなくてはならない」とか、「地球にやさしくしよう」とか、「地球資源を大切にしよう」とか、「地球に緑をとりもどそう」とか、これらの表現は「生命の秩序」および「宇宙の秩序」をわきまえない人間中心・自己本位の倣慢な表明です。
「生命の秩序」や「宇宙の秩序」が理解されていたなら、このような表現はできないはずです。
森林をはじめとするすべての植物は、私たちの親です。
地球は私たちの祖父母です。
親や祖父母殺しをさんざんに行っていながら、「申しわけありませんでした。 かんべんしてください」「ゆるしてください」のひとこと無しに、「地球環境を守ろう」だの、「地球資源を大切にしよう」「地球にやさしくしよう」「地球に緑をとりもどそう」などは、その心情は理解できても、どの程度根本的な取り組みと解決を決意しているか疑問です。
親殺し、祖父母殺し、先祖殺しの善悪の判断のできないままに、こころからの反省と悔俄がなされないままでは、いかなる善言も空々しく偽善に終始しそうです。
当面の脅威や恐怖のとりつくろいができれば、ふたたび親をも祖父母をも天地を畏れぬ行為行動が出てくるのは明らかです。
したがってこの際、「生命の秩序」と「宇宙の秩序」の原理を、正しくしっかり学び直し、理解し、生活常識にし直すのでないなら、地球環境問題の根本的な解決は期待できません。
銀河系・太陽系宇宙を包含する素粒子の世界は地球の親であり、地球は植物の親であり、植物は人間および動物の親である。
この「宇宙の秩序」と「生命の秩序」の理解と認識こそ地球環境問題を正しくするもっとも重要な基本です。
この認識に立って、私たちの行為行動と活動がはじまるのでなくてはならない。
この基本認識を欠くと、次のような事例が英雄的事業や行為であるかのように吹聴され推進されることになります。
いま、宇宙開発科学とか事業という美名のもとに、原子力発電所や核実験によって発生する核廃棄物を宇宙空間にロケットで搬出し、宇宙空間圏層を核廃棄物の捨て場にする研究と実験が着々と行われている。
莫大な費用と危険を犯して日夜ひそかに行われているのです。
これは狂気どころの騒ぎではなく、まさに生命の由来を知らぬ存ぜぬの悪魔のしわざとしかいいようのない行為ではありませんか。
「天にツバする」どころのことではなく、「天に天獄を、地に地獄を」というのか、「天をも地をも地獄に」する悪魔の行為と指摘せざるをえません。
親殺し、祖父母殺し、ご先祖殺しをした上に、ご先祖のふところに己れの遺物たる核廃棄物をバラまき、それによって核物質からの害をのがれ地球を守るというのです。
表面は科学的にみえても、なんと非科学的理論と行為ではありませんか。
見えない世界のことは知ったことあるか、という無責任このうえない行為です。
なぜ、こうした悪魔的な行為が「正義」の大儀名分になってしまうのか、これを理解するためにも「食の秩序」の理解が必要です。
私たちは、これまでの教育において、海洋(海)が生物発生の場所として、海は産みの親であると学び、常識にしています。
あるいは、地球は生物の母なる大地である、とも学んでいます。
どちらもまちがいではないのですが、正確さに欠けている。
地球も海も、地球生物の生命のふるさとの一部にちがいはないけれど、植物と動物の関係をあいまいにしたままの生命観・自然観です。
植物と動物の関係を明確にしていないのは、宇宙的視野から生命現象を考察する「生命の秩序」観を欠いているからです。
宇宙生命観を欠いている証拠です。
これゆえに、植物を単なるモノとみなして扱い、人間に隷属し服従させるもののごとく扱い、伐るも焼くも燃やすも食うも殺すも人間の勝手の思考となったのです。
これは微生物や昆虫類や魚貝類等に対する態度にもいえることです。
これらを総合した思想が自然征服の行為行動になっているわけですが、この思想を黙認して放置したままの地球環境破壊対策や方法は虚偽と偽善にはかなりません。
生命の秩序と宇宙の秩序を理解して常識としていれば、けっして考えも思いつかない思想です。
20代の大腸がん闘病記、幸せを考える
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
体と心の基本条件
どんなひとでも、次の食事を真面目に一ヶ月間行うなら、からだはかならず好転しはじめます。
あなたの血液は改善されはじめ、分断され窒息させられていた生命力が流動しはじめ、天地との交感をはじめます。
しかし、まえに述べた「自然には飛躍はない」のとおり、あなたのからだの内部では、あなたを正しく生かそうとする将来の玄米の力と、あなたを死なしてかまわないとする病気の現旧勢力が、しばらくのあいだ、いがみあいの紛争と抗争(勢力争い)を交わさねばなりません。
病勢は、あなたのこころがまえと、こころもちいかんによって一進一退し、いろいろに変転変化します。
あなたのこころが、不信や不安や疑いで暗くいじけた状態になれば、血液はサッと暗い黒い成分が優勢になって、あなたを死なしてもかまわないとする勢力が力を増して、病状や病勢をつのらせます。
あなたのこころが、すべてを神様にゆだねる明るい楽天の状態の時は、血液はサッと赤く明るい成分が優勢になって、あなたを生かそうとする力に加勢して、旧体質を新しい体質へと代謝を促進し、病状や病勢をやわらげ治めてゆきます。
これら一連の反応と期間を、好転反応および好転反応期と称するひともありますが、かならずしもすべてが好転反応とはかぎりません。
あなたのこころもちと意志と忍耐の力によって、血液と病気の状態は微妙に好転悪転を繰り返しますから、しばらくは一進一退・二進一退の状況がつづきがちです。
これゆえ、ここに述べる食事をきちんと守りつづけるのはいうまでもありませんが、同時に「かならず良くなる」という信念と、「わたしは神力をいただいている」という神様におまかせの楽天的な明るいこころをわがこころとする、これが好転への基本条件となります。
オススメのジューサーは?パワフルジューサーを比較してみた
宇宙の法則に従う生活をはじめるのですから、これは神力に恵まれることにはかなりません。
それと、あらかじめ承知しておいていただきたいことは、玄米正食で太り出すことは、めったにありません。
ほとんどのひとは、5〜10%ほど痩せます。
これは新陳代謝による体質転換にともなう現象ですから、おそれることも脅えることもありません。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
一物全体食はなぜよいのか?
なぜ一物全体食がよいか、について石塚左玄は次のように述べています。
「健康を保つには、生命あるものの全体を食べることだ。
野菜は皮をむいたり、湯がいたりせず、魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べよ。
食物に陰陽の別はあっても、生きているものは、すべてそれなりに陰陽の調和が保たれているのだから、その部分だけを食べたのでは健康長寿は望めない。
自然界の動物たちの食べ方をよく見るべきだ。
彼らは人間のように包丁を用いたり、味つけをしたりはしない。」(沼田勇著『幕末名医の食養学』)
二木謙三博士は、「一物全体食」のかわりに「完全食」という表現をしています。
意味するところは同じです。
どちらも「陰陽の調和がとれている」点を重要としています。
陰陽の調和がとれているから、体内に入ったのちからだの調和を狂わしたり崩すこともすくない、というわけです。
からだの不調や病気は、陰陽のアンバランス、偏りの表現です。
たとえば血液でいえば、まえに書いたとおり、赤血球のナトリウムとカリウムの比率が1対5から大幅に偏って狂いつづけたり、崩れつづけることは、血液の陰陽度がアンバランス状態です。
健全なはたらきを行えなくなる。
したがって、体調は崩れてきます。
農薬や化学肥料や化学飼料にたよりきった、いのちのない食物や加工食品や部分食を常食するのは、いつも偏食(栄養的にかたよった食事)しているのと同じです。
いつも偏食しているということは、体内の生理活動をたえず強制的に調和と調整に酷使することになります。
たえず、ストレスをかけているのと同じです。
諸器官や臓器がオーバーヒートすることになる。
陰陽の調和はとりきれなくなり、代謝力も抵抗力も乏しくなり、病気になります。
これに対して、食物の陰陽バランスがよく調和がとれていれば、消化吸収に手間どったり、臓器官に余分の負担をさせることもすくない。
生理作用を狂わせたり、偏向させることもすくない。
一物全体食は、すべてに理がかなっています。
世界各国どこでも、伝統的な郷土食には、かならずすぐれた一物全体食があります。
古代からの土着の人たちは、かならずその風土に適合した一物全体の食法を築いて、子孫にその料理法をのこしつたえています。
現代でも長寿国と称される土地にはこの料理の真髄が伝承されています。
一物全体食は、直観と体験によって築かれ、「身土不二の原則」のひとつとして守られているのです。
それでは、食物はすべて一物全体食がすぐれているかというと、かならずLもそうとはいえない。
一物全体食がよいものと、そうでないほうがよいものとある。
この点に関して、食養の大家沼田勇博士は、次のように注意しています。
「一物全体食がよいからといって、先祖も食べなかったものを全体食するときは、充分な注意を払わねばなりません。
また、先祖が好んで食べた自然食でも、常に、その全体を食べていたとは限りません。
たとえば河豚がそうです。
また熊を射るための毒矢に用いるトリカブトの根などのように、それ自体は毒でも小量を用いて貴重な医薬としている場合もあります」 と。
現今の農畜漁産物は、化学農薬、化学肥料、化学栄養剤、大気汚染物質、水質汚染物質等々によってほとんどのものが汚染されています。
明治以前の状況とはまったくちがってしまっている。
石塚・桜沢・二木各氏が一物全体食を推賞した頃と、状況がたいへんちがっています。
各食物ごとにどの範囲まで全体食が可能か、十分なる研究と注意が必要です。
この点、穀物は、ポストハーベスト(収穫後の農薬処理)をのぞけば、種子自体が幾重もの自己防衛体制をとっており、全体食にふさわしい食物です。
大腸がんの食事療法
それでは玄米の一物全体食はなぜ良いのでしょう。
玄米は皮つきであるから尊い。
一般に食物の皮はきらわれ、軽視、無視されます。
しかしこれは大まちがい。
その尊さ重要さは、自分のからだの皮膚を考察してみてください。
皮が無かったらどうなりますか。
生命を保つことはできません。
万物同じです。
皮は皮どうし、相似の性や機能や形態をしています。
尊さ重要さにおいても同じです。
玄米の表皮は、何層かの脂肪、タンパク質、ミネラル、ビタミンなどを含む、いわゆる糠(ぬか)層です。
デンプン層(胚乳部)を包んで保護している。
この皮のおかげで、炊かれて、ごはんとなって口から摂取される時に、デンプンが一度に過剰に消化吸収されないようになっている。
血糖値が一気に上昇しないように、表皮の層が人体の消化と吸収の順序・秩序に応じて分解され、適材適所に適量の成分が調整されて配給される。
そのおかげで、正常かつ健全な血糖値が保たれる。
玄米をよく噛んで食べておれば、血糖値の上り下りを心配する必要はない。
玄米の皮と実とが、胃腸と十分な交信をとりあって、主人たる人体に不都合ないようにとりはからってくれる。
これが白米や白砂糖や精製食品やアルコール類となると、人体の適所に適材としての役割が果せません。
局部局所で過剰に急激に吸収されたり、処理しきれなくなったりして一気に血糖が上がったり減少したりして、胃腸の働きを害したり、糖尿病にしたりします。
糖尿病に玄米食がよいのは、以上のような理由もあるからです。
玄米の皮は、ここでは、ほんの一例を述べただけですが、このように偉大なハタラキをしてくれるわけです。
単なる皮ではない。
栄養物質や繊維質や生命素成分が何重にも層をなしていて、
歯、口腔、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門にいたる消化器系の各部、各処、各環境に対応して一枚一枚と層が活用され、
酵素やホルモンや消化液や腸内菌や粘膜が正常で健全なハタラキをする素材となったり、発ガン性物質を吸着して排泄を促したり、絶大なる天然の生命の恵みを人体にもたらしてくれます。
白米にしてしまったら、こうしたハタラキは不可能です。
皮のみならず玄米の一物全体ともなれば、さらにはかりしれない生命成分と生命力伝授のシクミが組みこまれて完備されています。
こうした理由もあって、一物全体食のできる玄米やその他の穀物が主食とされるゆえんです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
一物全体食とは
生きた食物には生命素があり、死んだ食物には「生命素」はない、と二木謙三博士は説かれた。
生きた食物と、死んだ食物や死物化してる食品とは、食物と人体の生命のかかわりかたが根本的にちがう。
からだに入ってからのはたらきに差がある。
ちがいがあるということです。
博士は生化学的な研究のほかに、野生動物の食生態を観察して説明しています。
たとえば、人体の酵素のはたらきを観察しても、生きたものどうLと、死んだ食物や加工食品とでは作用と反作用のちがいが出てくる。
前者は活性素として活動源としてはたらくのに、後者は腐敗分解と処理に、そのはたらきの大部分は消費される。
「玄米は生きているといっても、火にかけて炊いたり煮たりすれば死んでしまうのではないか。
煮炊き作業は、一種の加工であり、玄米も煮炊きするからには加工食品ではないか」
と、質問や反論を受けることがあります。
通常の加工食品とかわりないのではないか、という意味です。
たしかに、そのとおりです。
生食を日常食としていた上古代の先祖たちは、お米をも生で食べていたようです。
お米を炊いて食べるのは、国家的・部族的大祝祭日(ハレの日)に、一年に一度とか数度と限定されていた。
お米がまだ収量も乏しく貴重な食糧だったせいもありますが、炊いて食べるのはぜいたくと考えられていたようです。
しかし収穫量が増すにしたがって、生食より炊いたほうが好まれだします。
おいしいし、食べやすい。
炊いたごはんを食べる回数が多くなるにつれて、寿命が短かくなった。
病も多くなった。
炊飯の回数と寿命が短縮した様子が、上古代からの口伝文書などに記されています(『完訳秀真伝』)。
ですから、本当は、からだが頑健であれば生食が理想的なのかしれません。
しかし人類は、火の活用によって生食のマイナスを補う料理や食事法へと進みました。
火の使用は食事量を増やし、ぜいたくに慣れ親しませることになり、結果的には生理的にも生物学的にも退化をはじめます。
お米の食べ方に関しても、いつしか生では食べきれないからだになり、炊いた玄米でさえ食べなくなり、白米からさらに粉食へ、粉食から流動食へと虚弱な消化器人類へと退化路線を進行中です。
とはいえ、玄米を生で食べて、食べられなくはありません。
水にひたしてふやかして食べやすくしたり、発芽させたりして、炊いてしまったら得られない生独自独特の栄養や生命素を活用する食べ方はあります。
現に、生食者もいます。
しかし、生食には偉大な長所もあるかわりに短所もある。
からだの強者、弱者にへだてなく、だれにも平均してからだも頭脳も調和のとれた発達を希望するなら、やはり火を用いて食べるほうが好ましい。
人類は「火」の利用に比例して大脳を発達させることができました。
「火は、食物の組成分子、原子を、人体の、特に頭脳のエネルギーと栄養素に、変換、転換させる活性炉」のハタラキをしているのです。
人類は火の使用によって、大脳による思考力を発達させたかわりに肉体を退化させた、そのような歩みをしているわけです。
天然自然や手づくりの段階の火を利用している間は、人類は万物の霊長といえる直観力を主とする発達をしています。
原子から原子力という人工の火をつくり使用する72段階に突入して、いまや果たして霊長類といってられるかどうか疑問です。
それはともかくとして、火を用いて玄米を食べやすくする作業は、玄米の一物全体を人体用の栄養成分と生命素に変換する作業であって、現今のいわゆる機械力や化学力による加工食品の「加工」とはちがいます。
玄米を白米にするとか、
玄麦を精白粉や白パンや精白めんにするとか、
天日海水塩を化学製精塩にするとか、
牛乳をミルクやクリームやバターやチーズなどにするとか、
卵をマヨネーズやケーキにするとか、
魚獣肉をハムやソーセージやカマボコやバンペンなどにしてしまうとか、
一物全体を部分的な食材に、異質・異形体のモノにしてしまったり、何種類もの食材を寄せあつめて合成する加工と、玄米の煮炊きとは、意味も内容も効能もちがいます。
生食と煮炊きしたのとでは、一物全体食できる玄米でさえ、ちがいはあります。
生命力にちがいがあるのは当然です。
しかし現代人は、上古代人にくらべてはるかに虚弱化していますから、胃腸の消化力に応じた食べ方をするのが賢明でしょう。
煮炊きの過程を経ても玄米の生命力は、他の食物にくらべて、はるかにすぐれています。
「火力の陽性エネルギーを付け加えられた玄米は、陽性な赤血球や血液になりやすい転換力を加えられた一物全体食である」
ことを書き添えておきます。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
はしかにみる植物性食と動物性食
野生の肉食動物や、牧畜民の食生活の秩序づけや、母乳の生理の核心は、動物性をいかに植物性化して宇宙法則に適合させるかにあります。
動物は植物によって養われるという原理原則の遵守志向にはかならないといえます。
ところが現代日本人の食生活は、この原理原則を大きく踏みはずしています。
その一例を「はしか」に観ることができるし、「はしか」が警告しているともいえます。
動物性食が少なかった頃の「はしか」は、比較的に単純明解な生理現象でした。
お米か雑穀が主食で、野菜と海草と大豆程度を副食として、時々少量の魚貝類をごちそうとした郷土食時代は、「はしか」は健全な生理現象でした。
「はしか」の洗礼をうけることは、丈夫に育つことのしるLでした。
母親から母乳を通して入った動物性成分が、これによって最終的に排除排泄されて赤ちゃんの体質が浄化されるのですから、こののちはいちだんと丈夫に健康に発育成長できることになります。
「はしか」は母乳によってもちこまれた動物性栄養成分排除の生理現象であることを理解しておく必要があります。
乳幼児の健全な生理は、自分の直親の母乳に含有された過剰な動物性成分をも「はしか」現象によって排泄しようというのに、明治以降の栄養学と医学と、ハイカラを自称する才知に長けたがる母親たちは、自分の母乳よりももっと縁遠い牛や山羊の乳とか、卵だとか肉とか魚とかの動物性食物や食品を摂りこんで、自分はもとより赤ちゃんのからだを汚染するわけです。
この100年、とくに戦後の50年間に、私たちの食事は動物性が多くなり、しかも多種多様になりました。
そしてこの頃から、「はしか」も複雑怪奇の症状を呈しはじめることになります。
食事の乱れとともに、排毒症状は次第に複雑重症化し、小児マヒや日本脳炎やアレルギー体質からアトピー性皮膚炎や暗息など、顕著な例症です。
日本という気候風土での生活では、単純明解な「はしか」で済む範囲内の食生活が正しいのです。
母乳内に含まれた過剰な動物性成分を数日の発熱によって排毒しきれる、その程度の食生活でなければならないのです。
いまや栄養学と医学という名のもとに、動物性食物と食品が日常化して、生体本能を狂わせてしまった。
現代は、母子の生体本能を強制的に狂わせる食生活時代であると、「はしか」は語っています。
「はしか」を病理としてしか扱わない医学と栄養学の欠点が現われています。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
3胎児と赤ん坊と牧畜民の相似象
ライオンでもトラでもハゲタカでも、オオカミやキツネでも、野生の肉食動物は倒した動物のハラワタ(臓物)を優先的に食べます。
そこに新鮮な野草成分(植物性栄養成分)がいちばんあることを知っているのです。
たぶん、いちばんおいしいと感じるところでもあるのでしょう。
このように彼等の本能は、植物(草や木の実)が本来の食物であることを承知しているのです。
また彼等肉食動物が捕獲の対象にするのは草食動物です。
よくよくの事情がないかぎり、最初から肉食動物を襲うことはしません。
本能は宇宙と生命の秩序を知っていますから、できるだけ植物にちかい食物の捕獲につとめているのです。
さて、動物は、土を食べる能力をさずからなかったかわりに、移動できる能力をさずかりました。
動物という呼称のいわれであり、最大の特徴です。
この能力によって、本来は居住定住すべきではない場合にまで足をのばし、居住定住するようになりました。
食べてはいけない食物をも、背に腹はかえられないで、食う習慣を身につけるわけです。
農耕民は植物性食物を主たる食糧にしたのに対して、遊牧畜民は野生動物を家畜化し、家畜を主たる食糧とする生活をすることになりました。
牧畜を生業とせざるをえない土地に居住したがために、動物性食(肉食)を行うようになったのです。
植物性食物を十分に調達できさえすれば、彼らとて、あえて宇宙法則違反をしたいわけではなかったはずです。
なぜ、このような推察ができるか。
野生動物に関してはさきほど述べたことにうかがえます。
牧畜民の食生活は、動物性(陽性)をできるだけ植物性(陰性)化して飲食する知恵にあふれています。
私は、彼らとともに生活した体験があるわけではありませんから知ったかぶりはできませんが、本やテレビや新聞などによって、彼らがいろいろな方法で宇宙法則違反にならない飲食上の工夫をしている様子を知ることはできます。
牧畜民だからといって肉ばかりを食べているわけではありません。
穀物や野草や果実や、収穫しうる植物性食物を家畜と同等以上に貴重な食糧として扱っている。
植物性食物が正食であることを十分心得ているのです。
極寒冷地に生活するイヌイットたちも、その本能的志向においては同じにちがいありません。
これらのことは、胎児と赤ちゃんの生態を観察すると明白です。
胎児と赤ちゃんは、寒冷地人や牧畜民を象徴していると考えられます。
胎児は、この世に生まれ出るまでは、おかあさんの胎内という100%動物性成分に囲われた世界の住人です。
牧畜民が家畜に囲われて生活するのと相似象です。
この世に生まれ出ると、お母さんのオッパイ(母乳)をのむことになります。
オッパイは、お母さんという動物のからだでつくられる動物性食物です。
人乳にかぎらず動物の乳は、どれもみな動物性食物です。
しかし「乳」は、肉や卵とは大いにちがう点があります。
動物性食物であることにはちがいないのですが、ここには宇宙法則の意志が歴然とはたらいているのを理解できます。
母乳はお母さんの血液からつくられます。
血液は赤い色(陽性)をした液体です。
赤くて、やや塩からい(陽性)味のする、ねばっこい(陽性)液体です。
この血液が、このままオッパイになるのでないことは、だれでも知っています。
ことによると、オッパイは乳白色をしているので、血液からできるとは思っていないひとが多いかも知れません。
母乳は、お母さんの赤い(陽性の)血が白い(陰性の)血につくりかえられ、白い血にさらに脂肪や糖分が加えられて甘く調整され、赤い血からつくられたとは思えないほどサラッとした乳白色となるのです。
赤い血が、なぜこのように白い乳につくりかえられる必要があるのでしょう。
これは、母乳という動物性食(一種の肉食)を植物性化するための、新生児への神のはからいといえる神秘的な生理作用です。
生命の秩序、宇宙法則にしたがう生理作用です。
動物は植物を食べるのが原則です。
植物を食べるということは、短絡的な表現になりますが、葉緑素を食べるといってもよいでしょう。
人間の血液は、植物の葉緑素が転換してヘモグロビンという赤色のタンパク質になった。
葉緑素の中のマグネシウム(Mg)が、鉄(聖に入れかわったのがへミンです。
光分析器にかけると、マグネシウムは緑色を、鉄は赤色を呈します。
植物と晴乳動物を象徴する色素です。
陽性な動物は赤い血をもち、陰性な植物は緑の血をしている。
赤い血をもつゆえに陽性、緑の血をしているゆえに陰性ともいえます。
お母さんという動物胎内で赤い血で養われていた胎児は、赤ちゃんとなってこの世に二個のひとおよび人間として飛び出します。
しかし飛び出してすぐに単独で、植物性食物を食べて消化吸収できるわけではありません。
歯が生えそろっているわけではなし、消化液や消化酵素や免疫体制などが十分にととのっているわけではありません。
植物性の食物を消化吸収できるようになるまでのあいだ、母乳が必要です。
母乳は、赤ちゃんがほぼ「本前になって単独で植物性食物を飲食できるようになるための橋渡し的食べものであり、植物食への訓練食なのです。
この訓練を経て、ひとは原則として植物性食を主食とせよとの命令をさずかるわけです。
このように人間の主食は植物性であって肉食(動物性食)でないことは、生理現象や本能性向などいろいろの面に観察できます。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?
白米食は弱者をますます弱くする
玄米が人体に必要な栄養素の宝庫であることは、玄米食を説く本にはかならずといってよいほど述べられています。
ですからここでは省略しようかとも考えましたが、この本によってはじめて玄米を知るひともありましょうから、その主だったいくつかだけを特記してみます。
現代人は精白米をお米と思いこんでいます。
しかし、それはまちがいで、精白米はお米の一部分にすぎません。
白米は粕である、といわれるくらい部分化されたものです。
精白は「精薄」(精神薄弱)につながっているのはたしかです。
精白産業・精白社会は、人間の精神薄弱化志向にはかなりません。
「精」とは「青米」、「青米」とは生命力が青年期状態にある力強い生き活きしている時の米の意味を表わしています。
精とは若い宇宙生命力の意味であるともいえます。
この生命力がはぎとられて薄められたのが白米です。
これゆえ、精白・精製しない玄穀を食べていた時代は人びとの精神力や生命力は強く生き活きしていました。
精白して白米や自パンや精製砂糖や精製塩を食べるようになって、ミネラルやビタミンや必須栄養素不足が習慣となり、精神も肉体も薄弱となりました。
人類はわがまま勝手なぜいたくな食生活をするようになって自ら精神薄弱で身体虚弱になる道を選択したのです。
玄米で食べるよりも白米で食べるほうがおいしいという、口先・舌先の感覚による判断で、自分および子孫の将来の命運の選択をした、これは重大問題です。
精白米は、強者が弱くなるために食べるのにはちょうどよい食べものです。
強者の食べものや食べ方を、弱者が模倣する必要はありません。
強者が食うものを、弱者が食ってなぜ悪いなどと、こんなところで不公平だ差別だをかこつのは見当ちがいです。
強者には粕(白米)を食べていただいて弱くなってもらい、弱者は実のある玄米を食べて強く健康になって、人生と生き甲斐をみなが等しく楽しみ味わうのが真に平等というものです。
舌先・口先・目先・鼻先という感覚の平等や公平の探求や権利主張は弱者をますます弱者にして、強者に隷属させる生き方にしかすぎません。
白米社会、白米国家体制、精製精白化産業 - 強者は、なぜこれを推進するか、弱者は冷静に熟視・熟考してみる必要があります。
弱者をいつまでも、永遠に、子々孫々にわたって強者に隷属させつづけるには、粕のような白米を食わせておくのはかしこい方法です。
しかも、よろこぼれ、うれしがられながら代々弱者を自ら志向してくれるのですから、強者にとって、こんなに便利でつごうのよいことはありません。
白米には、こうした落とし穴と、予期しがたい謀略的ともいえる生理生態学的必然性が秘められています。
白米食は、弱者をますます弱く隷属させる食事法なのです。
強者が強者の地位を温存しっづけるのに都合のよい食事法なのです。
しかし、弱者が弱者のままの一生を終りたくなければ、実のある玄米を食べて強者の資格の基本である健康を確立することにめざめることです。
カテゴリー:玄米食が何故体にいいのか?


