玄米は生きている
二木謙三博士(1873〜1966、文化勲章受賞者)は二木式健康法で玄米食を普及された。
その普及活動の中で、玄米の生命力に関して「活動性類脂体」を指摘しています。
「活動性類脂体」は生きた食物にしか存在せず、死物には存在しない。
博士はこれを「生命素」と名づけました。
そして次のように説明しています。
「活動性類脂体は、特種な働きと、特種な性質と、特種の生理的機能をもっている。
これは脂肪と水との中間物体で、微細な結晶であるが液状をもしており、液状結晶の性質もあり、有機体無機体との中間体として存在し、多量の無機分を含みながら有機体を有し、さらには死物と生物との中間体に位して、生けるに非ずして、生けるが如き作用をする。
これが存在すれば、脂を水に混じ、固形物を液化し、無機物を有機化し、地上の森羅万象の生物を繁茂させる大魔力を有する根源である。
この不思議な魔力は、はじめ無機有機の中間体として現われ、有機物を作り、次に微細なる植物界に現われ、順次発展して、動物界はこの恩恵にあずかっている。」(『なぜ玄米でなければならぬか』大日本養生会刊)
玄米には、この「生命素」がたくさん含まれている。
この「生命素」が病気を治すのみならず、健康を確立してくれる、というわけです。
ここに述べられた「生命素」は生きた食物にしかない、という点が重要です。
- なぜ自然米がよいか、
- なぜ自然農法野菜や果物がよいか、
- なぜ自然塩がよいか、
- なぜ自然酒や自然酢がよいか、
- なぜ古式伝統醸造味噌醤油がよいか、
- なぜ天然自然の空気や水がよいか……、
それはすべて「生命素」があるからです。
「栄養成分」もさることながら、「生命素」の方がさらに根本的に重要です。
なぜなら、「生命素」は「栄養」を産生したり、「栄養」に変換し転換するからです。
過剰に手を加えた加工食品や人工産物は、生きた食物ではありません。
死物も同然です。
死物も同然どころか「死毒素」的なはたらきをするものが多い。
そうした成分をたくさん含んだ加工食品や薬物類をさかんに摂りながら、病気を治したい、病気になりたくない、健康になりたいと願っても、それはムリというものです。
「類脂体は生命素である」ということから、類脂体的加工食品が明治以降、急激に一大産業化しました。
活動性類脂体的なモノであれば生命素があるがごとき宣伝広告や教育がなされて、加工食品が日常食品の王座を占めるに至ります。
たとえば、
・牛乳と乳製品(バター、クリーム、チーズ、加工乳飲料)、
・牛乳と乳製品と砂糖をベースにした製品(キャラメル、アメ、チョコレートなど)、
牛乳と卵と砂糖をベースにした製品(菓子パン、ケーキ、アイスクリーム類、ソフトドリンク類)、
・卵と砂糖と果物をベースにした調味料類(マヨネーズ、ケチャップソースなど)、
・砂糖と果物をベースにした発酵食品や酵素飲料類、これら牛乳、卵、砂糖、アルコール類はどれもみな、ある種の類脂体物質です。
しかし人為加工されれば活動性類脂体ではなくなってしまう。
不活動性類脂体となってしまう。
これゆえに、これらの加工食品の消費量の増大と化学薬品(主として抗生物質薬)、化学食品添加物、化学調味料類の使用量の増加に正比例して、アレルギー体質、アレルギー症状、アトピー性疾患が増進している。
不活動性類脂体と過剰摂取タンパクを消化排除しきれないからだが病気となって出現したわけです。
「類脂体」であればからだによいはず、という程度の判断による加工食品化は、消費者をいつわり、あざむく、企みの工業化、企業化にはかなりません。
生きた食物の生命素を、さらにゆたかな生命素にする生きた食物の開発を行う、そのような農業であり食糧食品産業でなければならない。
ところが現実は、「病毒素・死毒素」をいかに「生命素」的に上手にあざむき、ごまかすかの開発に産業界全体がつとめているかのごときの加工食品化です。
明治以降のわが国加工食品産業の特徴は、「栄養」と「生命素」にこと似せて、ごまかして、人工加工食品を大量に消費させ、人体に摂取されたのちの「疲労素、老廃素、病毒素、死毒素」の発生と発現は、消費者の責任という、実に自分勝手な経済優先の論理で進んできているのです。
体質改善や病気治療どころか、体質の改悪と病気づくりが推進されてきたといえる。
これを改善・改革するには、まことの「生命素」とは何か、それはどこに在るか、を直視して正しい理解をすることからはじめるしかありません。
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